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2025.01.24

足利義満ってどんな人物なの?

足利義満(あしかが よしみつ)は、室町時代の日本の武将で、足利幕府の第三代将軍として、また文化面でも大きな影響を与えた人物です。彼は、14世紀末から15世紀初めにかけて活躍しました。義満の生涯や業績について、以下のような主要な点が挙げられます。

1. 足利義満の家系と出生

足利義満は、足利家の出身で、足利尊氏の孫にあたります。父は足利義詮で、義満は足利家の次期当主として生まれました。彼の誕生は1358年(弘和元年)です。足利家は、鎌倉時代の末期に元々は地方の有力な武士であったが、尊氏の活躍によって幕府のトップに登り詰めました。

2. 初期の経歴と将軍職

義満は、14歳の時に父・義詮が急死したため、わずか14歳で将軍職を継承します。しかし、彼が将軍として実権を握るにはしばらく時間がかかりました。この時期、実権を握っていたのは室町幕府の実力者である管領(かんれい)や周辺の有力武士たちでした。

義満が本格的に政治の実権を握るようになるのは、1390年代後半です。特に1392年には南北朝の合一が実現し、南朝の後亀山天皇との協議を経て、南朝と北朝を統一することに成功しました。この時点で、足利幕府は日本全土における支配権を確立し、義満の政治的基盤が強化されました。

3. 明との外交と「勘合貿易」

義満の政治的な手腕の一つに、明(中国)との外交が挙げられます。義満は、明の皇帝である永楽帝と良好な関係を築き、1392年に明から勘合符(かんごうふ)を授かります。勘合符は、貿易の際に必要な証明書のようなもので、これによって日本と明との貿易が公式に認められることとなり、いわゆる「勘合貿易」が始まりました。これにより、日本と中国との貿易が活発化し、義満の時代は経済的にも発展しました。

4. 宮廷文化の発展

義満は、政治的な手腕に加えて、文化の面でも重要な業績を残しました。特に、彼は「金閣寺(鹿苑寺)」の建立で知られています。この寺は義満の別荘を改造したもので、金箔を使った壮麗な建物が特徴です。金閣寺は、後に日本の禅宗文化と美術に大きな影響を与えました。

また、義満は文化的な面でも芸術家や学者たちを積極的に保護しました。彼は、能楽や文学の支援を行い、室町時代の文化的繁栄を促進しました。この時期の文化は、後の日本の芸術に大きな影響を与えることになります。

5. 終焉とその後

義満は、政治的にも文化的にも多くの成果を上げましたが、晩年には権力の集中や暴政の側面も見られるようになりました。特に、義満は自らを「太政大臣」として、朝廷の上位の職位をも占め、将軍職と朝廷の権力をほぼ一手に握るようになります。この権力集中が後の室町幕府の政治的不安定を招く一因となりました。

義満は1399年に引退し、後継者として義持を指名します。義満はその後、金閣寺で晩年を過ごし、1408年に死亡しました。義満の死後、室町幕府の権力は次第に衰退し、義持やその後の将軍たちの統治においては権力闘争が激化することになります。

6. 義満の影響

足利義満は、日本の歴史において非常に重要な人物であり、特に室町幕府の中期における安定した支配を実現したことで知られています。彼が行った外交政策、経済政策、文化支援などは、後の時代に大きな影響を与えました。しかし、その一方で権力の集中や、後継者問題など、政治的な不安定要因をもたらしたことも事実です。

義満は、政治的な手腕だけでなく、文化の発展にも寄与したため、その遺産は今でも日本の歴史と文化において重要な位置を占めています。

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