こんにちは。Wam三咲校の大國です。
虎キチの皆様。「あれ」おめでとうございます。オリックスもパ・リーグを制し、日本シリーズは関西決戦のムードが漂っていますが、まだクライマックスシリーズが残っています。我が「鷗軍」はマリンスタジアムで皆様をお待ちしております。新幹線、飛行機のご予約をお忘れなく。
さて、今日は「学力」について考えてみたいと思います。一般的に「学力が高い人」というと「テストで高得点を獲った人」「有名大学を卒業した人」などを指すようです。たしかに、一般入試で難関大学合格勝ち取るには相応の犠牲を払って勉強する必要があるので、合格した人に高い学力があることは明らかです。でも、それはその時点での話。過去の話ではないでしょうか。「学力」とは「学んだ証拠」ではなく、変化が激しい時代の長い人生において「学べる力」を表すのではないかと思うのです。
そんなことをぼんやり考えていたら、哲学者の内田樹氏と政治学者の白井聡氏の対談の中で、「学力というのは学ぶ力のことで、生きる力と同じ」「学ぶ力とは自学自習できる力のこと」とあるのを読みました。対談ではさらに「学校教育の仕事は学ぶ力を起動させること。」「生徒・学生の能動性を立ち上げること」と続きます。
さらに読み進めていくと「何かの拍子に先生の言ったことだったり先生の佇まいだったりが印象を与え、生き方に影響を及ぼしてきた。‥‥だからこそ、いろんな佇まいを子どもや若い人たちの前にサンプルとして提示すべきだ。どんな大人になりたいのか、なるべきなのか、教師たちがまとう雰囲気というかオーラは若い人たちにそうした問いをつきつける」とあります。
私は学校の人間ではなく塾の人間ですが、同じように「先生」と呼ばれる立場にいます。その視点から対談を逆から読むと、「教える側の人間の雰囲気やオーラが生徒の能動性を立ち上げ、学ぶ力を身につける。」ということになります。サンプルとして生徒の前に立つなら、「ああいう大人になりたくない」というサンプルではなく、「こういう大人になりたい」というサンプルになりたいものです。
「学力」って何だ?から始まった話なのですが、一周廻って返ってきました。生徒に「学ぶ力」を付けてもらうには、自分があああいう大人になりたいというサンプルとして接することが必要だったのです。目指すは「人格者」です。「人格者」と呼ばれるには程遠い位置にいる今の自分。「人格者」になるにはどうすればいいのか。自分の「学ぶ力」を鍛えるテーマができました。