こんにちは、個別指導Wam藤の木校です。
筆者は首都圏の出身で富山県の知識に乏しく、数年住んでいてもなかなか”富山ならでは”というものに巡り合えなかったのでこの機会にと調べることにしました。
富山といえば「越中とやまの薬売り」、配置薬が有名なのだそう。ちょうど先日合格者の発表が行われた薬剤師の国家試験、受験された皆様本当にお疲れ様でした。
元々、薬売りは江戸時代に拡がり明治・大正期に最盛期を迎えましたが、富山と薬との関係はいつから始まったのでしょうか。
実は江戸時代よりずっと前、古代にまでさかのぼります。
古代の租税制度は、租(もみ)・庸(労役の代わりに納める真綿などの品物)・調(特産物)と学校で習ったことと思います。その「調」に、当時の富山である越中では薬種や紙が指定されていたそうです。
越中の山や野には薬草が多く、これらの薬種を都へ送るために、都から越中の国へ薬の専門家がたくさん移住してきたそうです。越中の人たちは薬草の見分け方や処理の方法を学び、奈良の都まで17日間から19日間かけて薬種を運んでいました。このとき移住してきた薬の専門家がそのまま越中に住みつき、その後の富山の薬商人を生み出す基礎をつくったのではとも言われています。
日本が中国の唐に遣唐使を送っていた頃、日本海を隔てた日本の対岸に渤海(ぼっかい)という国がありました。渤海は今の中国の東北地方からロシアの沿海地方までの広い範囲にある国でしたが、日本とも唐とは別の交易がありました。日本の政府は渤海の使者に筑紫(北九州)に船を着けるよう命じていたのですが、風や潮流の関係で35回の来訪のうち13回は北陸地方に漂着し、そこで交易を行ったのです。このため越中では渤海語を学ぶなどして交流に努めました。交易では薬種として薬用人参や白附子(しろぶし)、蜂蜜などがもたらされましたが、渤海は遊牧民族の国でしたから、動物の角や内臓を使った薬に詳しく、その利用方法も越中に伝えたと考えられています。
都で僧侶が伝えていた薬は動物の殺生を嫌い草根木皮を薬種とするものが多かったのに比べ、越中の薬は麝香(じゃこう)・牛黄(ごおう)・熊胆(ゆうたん)などの動物生薬を早くから取り入れていました。その背景にはこの渤海国との交流の影響があるのかもしれません。
古墳には円墳や前方後円墳など様々な形がありますが、日本海沿岸地域だけに特徴的な「四隅突出型墳丘墓」が発見されています。島根県や鳥取県などに分布していますが、富山にも4基も見つかっています。これを考えると、渤海国との交流だけに限らず、古代の日本はこの地図のように日本海を中心に行われていたと見ることができるでしょう。
このように歴史を見てみると、いま常識と思っていることが全然違うように見えてきます。いま学校で習っている歴史は、その基礎知識、骨格でしかありません。だからこそしっかり学んでおけば、これまでどういう経緯を経て今に至ったのかもわかってきます。
歴史は暗記すればよいと思われがちですが、経緯を知り、今回のお話のように別の角度から見ればより深く知ることができます。多くの物事は理由の説明がつきます。「なぜだろう?」と思うことには必ず理由があって今の状態になっています。
当教室ではそうした「なぜ?」を解明することに力を入れています。
気になったことは何でも声に出して聞く。そのようにして理由や仕組みから理解して、苦手を得意へと変えていきましょう!
<参考文献>
薬日新聞社編「イラストでつづる富山売薬の歴史」富山薬日新聞社、1986年
<参考>
キッズ日本海学
http://www.nihonkaigaku.org/kids/about/index.html
環日本海・東アジア諸国図の掲載許可、販売について
https://www.pref.toyama.jp/1510/kensei/kouhou/kankoubutsu/kj00000275.html