こんにちは!Wam久宝寺校の山田です。
写真は、私の通勤時にとある交差点の信号に止まりました。その名も「水走」。大阪では有名な地名で、高速道路を使う方ならご存じかもしれませんが、県外の方はほぼほぼご存じない難読地名です。「すいそう」?「みはしり」?いや、意味的には水の上を走るから…「ポニョ」?かもしれませんね…。
同じ東大阪でもう一つ。「枚岡神社」。まいおか?近鉄バス利用者なら一発ですし。枚方市をご存じなら読めます。
正解は「みずはい」「ひらおか神社」です。枚方はひらかたで、同市出身のV6の岡田准一が務める「ひらパー兄さん」が有名ですね。度々、岡田さん主演映画をひらパー兄さんとしてセルフパロディするネタをTwitterでよく見かけます。
【豪族・水走氏の話】水走氏:引用・抜粋・編集
~水走の語源となった「水走氏」は、中臣系の枚岡連で、枚岡神社の神主など神職を世襲した一族。水走氏は、河内国中部から大和の一部を支配下におくようになり、枚岡神社の社領などを守る武士団へと成長。また、当時の河内地方は、旧大和川の支流や寝屋川など多くの河川や深野池などの湖沼があり、水運が発達し港もあった。水走氏はそれらの港を管理することで漁業権と水運権を確保し、勢力を拡大していった。~
補足すると、古代の近畿圏では神社が精神的な支柱であり、神主は重要な地位にありました。かつ、水の都とも称される大阪から奈良の都へとつながる水運を抑えていたわけですから、今でいえば「東京港や横浜港を抑えた一大企業」とも言えます。(なにせ当時の大量物流は海運水運に依存していました。)なかなかの豪族ですね。
~やがて、河内国の壷井を本拠とした河内源氏が勃興すると、水走氏はその家人となった。河内源氏の武力を背景とした水走氏は地位を安定させ、さらに飛躍をとげることになった。水走季忠は源義家・義忠の二代に仕え、その子の康忠は治承・寿永の源平合戦において源氏に味方して軍勢を西国に派遣した。そして、水利権などを認められ、鎌倉時代には枚岡神社やその地域の社寺を統括し、花国山観音寺などの別当職などを務め、確固たる地位を築き上げた。~
こちらは原文ままです。平安~鎌倉時代は源氏の庇護のもと、神職や武家としてさらなる発展を遂げ栄華を極めたようです。しかし、ここから時代のうねりに飲まれて行きます。
~鎌倉時代末期の元弘の乱に際して、水走康政は楠木正成に同心して反幕府の挙兵に加わった。鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による建武の新政が発足した。しかし、足利尊氏の謀叛により新政は崩壊、康政は楠木正成とともに天皇方に属し、正成が湊川の戦いで戦死したのちは、楠木正行と行動をともにした。その後、時代は南北朝の争乱へと動き、康政は南朝方として活躍した。正平三年(1348)、高師直の指揮する幕府軍と楠木正行率いる南朝軍とが、四条畷において激突した。戦いは南朝軍の敗北となり、正行は戦死、康政は師直軍に降服した。~
関西では南朝の後醍醐天皇と楠木正成に味方した武士が多くいて、四条畷(なわて)の戦いのあった四条畷市には今も「楠公」という地名が残るほどです。戦前にはお札の顔にもなりました。しかし建武の新政は明治維新のように幕府や武士から権限や生活を奪ってしまい、多くの関東武士のうっぷんが爆発し、それに担ぎ上げられたのが足利尊氏。楠公の名采配もむなしく敗北しました。
~以後、水走氏は勢力を縮小せざるをえなかったものの、河内国守護となった畠山氏のもとで室町時代を生き抜いた。しかし、畠山氏の内訌から応仁の乱が起り、戦国時代になると、守護畠山氏は次第に衰退、没落していった。水走氏もそのあおりをくって没落の憂き目となり、枚岡神社の神職として生き残るばかりの存在となった。かくして、水走氏は中世を生き抜き、平岡神社の神職として近世に存続したのあった。~
さらにその後の戦国時代の始まりとなる応仁の乱で畠山氏などの関西の大豪族が争うものの、陣営入り乱れて勝者なし、水走氏は武家として没落したようです。なお、枚岡神社も一度、水走氏が織田信長の怒りを買って焼失したようです。ただ、水走氏自体は枚岡神社の神職として幕末まで残りました。
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