Let us begin therefore, by laying aside facts, for they do not affect the question.(J.J. Rousseau )
「だからすべての事実から離れることから始めよう。事実では問題の核心にふれることができないからだ。」
今日はルソーの言葉から始めてみました。和歌山駅前校からです。
さて、駅前校の小学生でも中学受験を考えている生徒がいますが、それを意識し始めるのはだいたいが小3の終わりから小4にかけてであり、いわゆる「児童期」という名で呼ばれている時期だと思います。
児童期というのは端的に性的発現の時期で、そのときそれを抑圧して、知識とか技術とか道徳を強制する時期でもあります。具体的には学校に通って勉強する時期となるでしょう。見かけ上は性的発現や成熟を弾圧する、つまり潜在的にしておいて、顕在的には道徳や知識を学ぶわけです。とうぜん、人によっては学校に行き続ける人もいるから、児童期がずっと延長する人もいるといわれています。
とにかく思春期の手前にあるこの児童期というのはあまりよく分からない、不可解な時期で、まだうまく解明されていないようです。発達心理学みたいなものでも、わりとおざなりにされている分野だといわれております。
前置きが長くなりましたが、ルソーの「人間不平等起源論」の英訳の先っぽの方を読んでいきましょう。
教育論などの始祖でもあるルソーは、自分の生涯は不幸であったといっています。自ら不幸であるというのは何ものにも代えがたい主観で、どれだけルソーが偉大で世間から評価されていようと代替することができません。ちなみに、この実存的な幸・不幸は先にいった児童期を中心に形成されるといわれています。
英文そのものはやはり文語調であり、willではなくshallが使われています。
shallのほうが強い語感があり、例えば、日本国憲法の英訳文などもすべてshallで通していると思います。
However important it may be, in order to form a proper judgment of the natural state of man, to consider him from his origin, and to examine him, as it were, in the first embryo of the species; I shall not attempt to trace his organization through its successive approaches to perfection: I shall not stop to examine in the animal system what he might have been in the beginning, to become at last what he actually is; I shall not inquire whether, as Aristotle thinks, his neglected nails were no better at first than crooked talons; whether his whole body was not, bear-like, thick covered with rough hair; and whether, walking upon all-fours, his eyes, directed to the earth, and confined to a horizon of a few paces extent, did not at once point out the nature and limits of his ideas.
I could only form vague, and almost imaginary, conjectures on this subject. Comparative anatomy has not as yet been sufficiently improved; neither have the observations of natural philosophy been sufficiently ascertained, to establish upon such foundations the basis of a solid system. For this reason, without having recourse to the supernatural informations with which we have been favoured on this head, …
人間の自然の状態(エタ・ナチュレル)について正しく判断するためには、その起源から考察を始めて、いわば種の最初の胎児の状態から調べることが重要なのは確かである。しかしわたしは、人間のさまざまな器官がどのような段階を追って発展していったかを調べるつもりはない。また最初の状態はどのようなものだったか、どのようにして人間が人間になっていったかを、動物の体系のうちに立ちどまって考察するつもりもない。アリストテレスが考えたように、人間の長くのびた爪は最初は鉤形の猛獣の爪のようなものではなかったかとか、皮膚が熊のような毛で覆われていたのではないか、四足で歩いていたのではないかとか、まなざしが地面に向かっていたので、数歩さきまでしかみていなかったのではないかとか、こうしたことが人間のもつ観念の性格や限界を定めていたのではないかなどの問題を考察するつもりはないのである。
この主題については、漠然とした推測や、ほとんど想像に近いものしか語ることができないだろう。比較解剖学はまだほとんど進展しておらず、博物学者の観察もあまりに曖昧であり、このような土台の上には、確固とした推論を構築することはできないのである。そこでわたしは、この問題に関してわたしたちが持っている超自然的な知識(聖書の語ること)に訴えたりしないつもりである。・・・
いかがでしたか。
ルソーのいう自然の状態の人間というのは、大胆な問題設定で単なる仮説ではありません。
歴史の教科書に出てくるアウストラロピテクスやネアンデルタール人みたいなものではないです。かつて実在したかもしれない原始人や進化論から辿れる人類の祖先のようなものではないと言い切っています。
もちろん聖書が定める人間(the supernatural informations)とも決別するとも書いていますね。一個の類まれな想像力が、歴史的な事実よりも真実に迫る場合は間々あります。
ルソーはこのあと、経験的に観察される対象ではないこの自然の状態を、絶対的に孤独な状態として描いていきます。さらにその状態はその状態に基づいて閉ざされていると仮定しています。
次回また続きをしましょう。