こんにちは!磐城駅前校です。本日も一人でも多くの方の目に届くことを願い、
投稿させていただきます。
前回の続きです。
もう一つある映画のワンシーンをご紹介します。あるおばあさんが死を恐れ部屋の窓や扉を木の板で塞ぎ、部屋中にお札や魔よけの品を用意していました。そのおばあさんは毎晩毎晩、死神が命を奪いに来ると思い、震えて怯えていました。
そこへある一人の青年が訪ねてきます。「おばあさんこんにちは。すみません道に迷ってしまい、一晩だけ泊めてもらうことはできませんか?」おばあさんは家に誰も入れたくありません。しかし身寄りもない孤独なおばあさんはその優しい声色の青年を家に上げる事にしました。そしてその夜、青年はおばあさんに言います。「一人でいつも怖かったですね。でももう大丈夫ですよ。私が導きますから」と言い青年はおばあさんの手を取り、死の世界へと連れて行ってくれる、というお話です。
その青年は「死」という神様の使いでした。死を恐れ命を奪われると信じ込んでいたおばあさんは、死を迎えることで命が救われる、というお話です。
きっとこのおばあさんは「死」によって「生」から解放されたのだと思います。
しかし、死というのはとても恐ろしくできれば避けたいという価値観がどこかにありませんか?そして、いつかは死ぬとわかっていてもいまいちピンと来ない、なんていう人が大半だと思います。
この価値観は人間の生存本能が生み出しています。人は死なないために、少しでも長く生存するために本能レベルで「生きる」ように出来ているんですね。
そして、「死」を意識させることで得をする人が少なからずいるという事です。ここは深堀しませんがそういうものだと思っていてください。
さて、病気や事故、寿命等に関わらず死を意識し始めた時、人はどのような行動を取るでしょうか。例えば「お世話になった人に会いに行く」だったり「人生最後の旅」に出る人もいるでしょう。今世でやり残したことが無いように、人はいろんなことを考えると思います。
しかし、人が死ぬときあの世には何も持っていく事が出来ません。お金もブランド物のバッグもマイホームも広大な土地も、パートナーや友人も、です。
更に思い出も、経験も、概念も価値観も。何もかも今世で手放さなければなりません。
そこで考えてみましょう。「いつかは死ぬんだから強欲に生きる必要はないのかもな」と。「それだったらもっと自分も人も幸せになるようなことをした方が気分がいいのかもな」と。
さらに「愛する人もいつかは死んでしまう。それなら今一緒に楽しめることをしようか」などと考えるのではないでしょうか。
次回に続きます