こんにちは。WAM河北校です。8月も残り5日。朝5時頃はもう薄暗く、少し涼しさも感じる所感です。先
週に引き続き申す形にて、お彼岸まで未だ数週間ありますが、「体感的」には間もなく「秋」ですね。月並
みに「読書の秋」とは言いますが、「読書」は「自分が出来る」と思える「範囲内」で思えば、「いつ」で
も、「どこ」でも出来る行為だと思います。新聞の一面・リード、各学校の過去問題、レポート文、そして
「本」や「資料」と「定義」されている物、他様々、例え1単元1ページでもその学んだ「内容」が「自
身」の「一部」や「糧」になれば、それは結果的に「読書」だった私自身は思います。また、以前も「再
読」について申しましたが、「再読」も「自身の形」としての「理解」に変えて「考え」を「深める」と言
う意味では、やはり大変重要な行為です。先日、アイロニックに今までに色々な方々がそれぞれに読んで来
た「本」を通算の冊数として天に向かって積み上げるイラストが有ります。恐らくですが、「モノ」になっ
た「本」の冊数のみがカウントされ、積み上げられた本の上から、それぞれの見える「景色の違い」を表し
たイラストです。その「景色の違い」として、或る人は目の前の壁の向こうが見えない人、或る人は壁の向
こうが(ようやっと)見える人、或る人は壁をはるかに通り越して、夕焼けが奇麗に映えている海の向こう
が見えている人、また或る人は遥か空の上「天」の景色や後光が拝めている人等、それぞれの「見え方」の
違いが比較されております。その比較に依らず、私自身興味をひかれた「見え方」が有ります。「ある程
度」積み上げられた本の上に恐らく「自分」で「創った」(作ったでは無く「創った」です)であろう「土
台」を積み上げ、「本」では無く「自分」で「創った」「土台」を更に上に積み上げ続けて行く姿の方にむ
しろ興味を惹かれました。お恐らく「本」と言う物である意味の「価値」のバロメーターを測ろうとしてい
るであろうに、「土台」を「自分」で「創って」「積み上げていく」と言う「振る舞い」は、一体何を意味
しているのだろうと思うのです。「知識」や「技術」の「応用」に目覚めたのか?あるいは「基本」や
「型」を身に付けた上で、後は生きる「辞書」・「本」であろう「人間」との関わりだけで既に事足りてい
るという事なのか?果たして何を示唆しているのか?その解釈は見る人に委ねられているのでしょう。
「本」では無く、自分で「創った」「土台」で高い見地を作っているのですから、これも一種のアイロニー
のような気が致します。「読書」のお話だったのに完全に話題から逸れておりますね、すみません。先述し
た「応用」は例えば「ひらめき」
「発想力」「連想力」とも言い換えられると思います。例えば、この様な問題が有ります。8月は終戦月で
す。社会分野からですが、戦時中の原爆被害が「三角州」周辺の町の方が圧倒的に被害が多く、「リアス式
海岸」周辺の町はそれに比べて何故少なかったのか?をその考えられる理由を答えなさい。と言う問題が有
りました。個人的にはかなり古いですが「クイズダービー」を髣髴とさせる問題に感じます。賛否両論有っ
たようですが、私個人は所謂ダービーだけに「出来レース」では無かったと思っております。だって三択問
題以外の問題もたま~にですが、私にでも「的中」させられたのですから(笑)スマホもネットも存在しな
い「昭和」の番組にも関わらず、これだけ、与えられた「情報」や「知識」を(主に問題文からですが)総
合して考えて「答える」クイズ番組は中々無いな、とテレビに対する「皮肉」になりそうですが、
「YouTube」を見てつくづく思う次第です。ヒントは、三角州とリアス式海岸の違いを「比較」すれば恐ら
く「自身」なりの見解を引き出せると思います。例えば県立中学受検予定の皆さん、この様な問題が出るか
ら単純に対策しよう!対策しなければならない!ではダメなんです。何故受検するのか?その「動機」や
「目的」その「理由」も当然大切なのですが、「学校」が「社会」が「どの様な人間」に育ってほしいの
か?もしくはどのように「問題」を「解決」する姿勢を持って欲しいのか?そういった部分を問うていると
思うのです。その一つ前の段階において、「一般教科」の知識を何故一つの「一般教養」として何故学ぶ必
要があるのか?だと思うのです。再来週放送の様ですが、「高校生クイズ」も近年そうですね(笑)もはや
「知っている」
だけではダメなんです(汗)また、「知らない」「知らなかった」事は仕方ないとして、それらよりは「知
ろうとしない」事がむしろもっとダメのような気がします(大汗)マツコ・デラックスさんの「視野を広げ
るってね、どんな状況にあっても知りたいと思う事から始まるんじゃない?まずそれがないのに視野を広げ
るってことだけ言ってもどこにいようが何してようが一緒よ(ママ)。」と言う言葉を拝借しますが、マツ
コさんは、過去「視野を広げる」為の一つの定義として「海外へ行く」事を上げておりましたが、やはり、
「理由」「目的」「動機」が無ければ、「意味」が無い事を仰っておりました。私の所感ですが「行った事
実」だけ残しても「意味」がないと言う事なのだと思います。「読書」と言う行為にもこれはあてはまり、
私自身の経験ですが「本」に始まり「映画」「外出」「会話」等やはり、「見た」「出かけた」「話した」
「事実」を残した「だけ」ではやはり「意味」がないのですね。もっと究極を申せば「結果」と言う「事
実」を残した「だけ」と言うのも実は「意味」がないと思うのです。話返って、何故「本を読む」のでしょ
うか?と言う事なのですね。かつての同僚の方から「営業の魔法」と言う本を教えて頂いたのですが、かつ
ての自分に重なり、2日で読んでしまいました。今もたまに「再読」をしております。そして、先日に挙げ
ました池上彰さんの「何故読解力が必要なのか?」もやはり「再読」をしておりまして、そのきっかけが先
述の「三角州」と「リアス式海岸」の違いについてです。「読書」は単に決して「読んで来た冊数」では無
いと言う事で、「良い巡り合い」や「自身」の「適性」の要素も必要で有る事が、「自身」で「土台」を
「創って」積み上げているイラストを見て確信した次第です(笑)それが、私なりの「土台」イラストの
解釈です(笑)「営業の魔法」「何故読解力が必要なの
か?」については、近々勝手散文的に述べてみようと思います。まだまだ暑い日が続きますので、流行も含
め、体調にはくれぐれも気を付けて下さい。