教室ブログ

2022.07.15

【代行】

こんにちは、WAM河北校です。梅雨明け宣言にも関わらず、再び雨模様が続く様ですね。2日に渡るスーパーム

ーン、どなたか見られた方はいらっしゃいますでしょうか(笑)?さて、今週は参議院選挙が終わったので、勝

手ながらそれについて綴ってみようかと思ったのですが、興味深い作品に出会ったので、そちらに致そうと思い

ます。「現代文」の教科書から、池内了(いけうちさとる)さんの「技術が道徳を代行する時」という作品で

す。以前のこの時期もしくは1学期初めの「現代文」だと芥川龍之介氏の「「羅生門」やん」と言う所もありま

したが、やはり学ぶ事は学ぶとして、今は古文・漢文を交えた「言語文化」の分野になっているのですかね?

100年以上前の作品ですから、その分野に入っていてもおかしくはないでしょうか?100年以上前の作品ですが、

「「古典」文学」に分類するとして、その観点で見れば何ら相違ない感じも致します。「人の心理」に迫った提

示されている「テーマ」は「今の時代にも通じる」物だと思います。・・・と前置きが長くなりましたが

(汗)、先述の作品についてです。5分程で流し読みしてしまいましたが、四字熟語で申せば「本末転倒」「こ

の方もやはり「同じ事」を仰っているな」というのが私自身の所感です。教科学習として敢えて定義づけすると

すれば、環境問題の面から「理科」「社会」、また「道徳」への気づき関連の面では、以前のブログで申した池

上彰さんの言葉をお借りしますが「情緒的読解力」如何の指摘としてやはり「国語(国語力)」「社会」ともい

えると考えます。そして、このタイトルを目の当たりにして、「技術」という言葉が「機械」に、「道徳」とい

う言葉が「人間」という言葉にすり替わったのは私だけでしょうか・・・(汗)?それぞれの作品の文章量が多

かれ少なかれ、「読書」を「積み重ね」ていると「実質的」に「同じこと」と仰っているな、という事が折々で

あります。読書というのはそういう側面もあると私自身は思っております。しかし、その「積み重ね」が間接的

にではあるが「世間」の「考え」を知り、「個人」の「自信」や「考え」を作ると思うのです。特に説明文等の

「ノンフィクション」であれば尚更でしょうね。「機械」が代わりに「やっていい事」と「悪い事」の境界線を

事前に決めてくれている「社会」が「常態化」すればどうなるか?との警告に読み取れます。「機械」はあくま

で「人間」の「一助」である様な事は以前申したと思います。元はと言えば「機械」は「人間」が作ったもので

あるから、事前に決めてくれているのは実質「人間」なんじゃないの?と考えれば、確かにそうですね。ただ、

問題であるのは、「事前に決める前」の段階の方ではなく、「事前に決めた後」に続く段階に居る方なのでしょ

うね。物事に対処するにあたっての「倫理観」や「リテラシー」を自身で論理づけられていない人達がわんさか

出てくるかもしれないという事が著者に対するあくまで「私の解釈」の一つです。「「誰か」がやってくれる」

であれば、まだ「誰か」の対象は「「人間」の思考」の範囲で済むでしょうが、また「誰か」の部分が「機械」

に置き換わった時の方も、どちらにせよですが自身の「倫理観」や「リテラシー」を「他者」に委ねてしまって

いる事になるのかも知れません。単純に「機械」を使いこなせている・いないの基準が「時代錯誤」と言うので

あれば、ちょっと待って下さい!(笑)これは私、絶対に違うと思うのです。例えば、「商売」の相手は言わず

もがな「人間」であって、「機械」ではありません。更に、プライベートにおいて通信機器を用いて意思疎通を

図る際も、基本「相手」は「同じい」筈です。だからこそ「機械」は「一助」だと思うのです。サービス業など

における、いわゆる「マニュアル」「ガイドライン」は「企業理念」故に後生大事で、私自身も確かにこれらは

「最低限の仕事を行う為の」基本事項だと思います。ただ、これはあくまで「守破離」の段階である「守」の域

を出ないものであって、それ以上のパフォーマンスはそれを自分なりに応用しないと99.9%絶対に出せないと思

うのです。「やらなければいけない事」しかやらない、もしくは「やらなければいけない事だけすればいい」と

言う人が誰かを指導するとすれば、その指導を受ける人も「やらなければいけない事しか」やらなくなる、もし

くは「やらなければいけない事以外」も行ってくれるのに「やらなければいけない事しか」してくれなくなり、

更にその流れが連鎖すると言う可能性は考えられないでしょうか?ただ、こちらもどちらにせよ「ルール」を守

っている事には変わりはない・・・のですよね。どちらも「ルール」は守っているのです。「ルール」は。ま

た、メール機能やLINEが「普及」し、「電話は相手の時間を奪う非礼な行為」と言う「認識」も「普及」しつつ

あるようですが、その「認識」も恐らく、便利さの「普及」故の新しい「道徳」なのだと思います。・・・です

が、その「認識」と言う「先入観」に囚われて、それ「以外」の方法を思い付けなくなった時、もはやそれは

「道徳」を謳う以前の問題であり、「本末転倒」かつ自身の「思考」を「代行」されていると感じるのは私だけ

でしょうか?(汗)つまり、メール機能やLINEが有るから、電話が有るのではなくて、電話が有るからメール機

能やLINEが有ると言う認識に基づいた「ルール上」の新しい「道徳」そして、「礼儀」による行為だと思うので

すが、如何でしょうか?(笑)メール機能やLINEが無理であればどうするのか?はたまた、電話が無理であれば

どうするのかと言う、恐らく、「便利」とは対の、遡行(そこう)の思考も必要なのだと思います。最後、投げ

っ放しの質問になりそうですが、「古典」って何故勉強する必要があるのでしょうか・・・?実施梅雨の如く、

打って変わって蒸し暑いですので、暑さ・流行に体調にはくれぐれも気を付けて下さい。

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