こんにちは。Wam四箇郷校です。3月も残す所あと一週間。「三寒四温」とは的外れかもしれませんが、身が締まる
様な寒さと、今日を含め、汗ばむに近い暖かさがせめぎ合っている様な様相ですね。気まぐれに振り回されて、体調
は崩されていないでしょうか?さて、公立高校「本」入試が終了致しました・・・が、毎年申し上げているかとは思
いますが、「一旦」の結果を受けて、まだ「終了していない」方々がその背景にいらっしゃいます。挑まれた方々全
員のそれぞれの意味は違うでしょうが、「全員」が同じく終了した訳ではありません。表裏一体の如く、自身の「嬉
しさ」の裏側にはもしかしたら誰かの「苦しい思い」があるかもしれません。喜ぶ気持ちに水を差すという意味では
なく、そういった方々が実は自身の見えない所に居るという事を踏まえた上で、「慎み」や「厳粛さ」をどうか「出
来る範囲」で持って頂ければ、という私個人の希望です(汗)喜怒哀楽の感情を存分に醸し出す事は、感情表現豊か
でいい事だとは思います。ですが、私からすると感情表現の「豊かさ」に少しの「心遣い」を加えられたら、「感
情」を少しは上手く操った「気配り」、いわば「大人になる為の対応」が出来るのではないかと思うのです。「嬉し
いならなぜ素直に喜ばないの?」と突っ込みたくなると思うのですが、喜ぶ事それ自体は「悪」でもなく、むしろ当
たり前の事だと思います。肝腎(肝心)要は、例えば誰と、何処で、どんな風に等、喜ぶ「場合」や「場所」そし
て、その「方法」との言うものは、相手の心の機微を敏感に捉える上では大事なのでしょうね。私自身も、過去他の
方々に指摘されてはっとしたのですが、どの様な事に限らず、相手を慰めたり、寄り添ったりそのような言葉をかけ
たりする際に、「場所」や「場合」を選んでいるか?もっと言えば自己満足になっていないか?自分の感情を優先さ
せずに理性を持って場の空気を読み取れているか?そういう風に叱咤されたもしくは示唆された事がありました。
「嬉しい時は大勢で喜んで分かち合う」「悲しい時は独りで気の済むまで悲しむ」
恐らく、有り触れた事ではありますが、出来ればその有り触れた事をもう一歩踏み入って逆手に捉えて、「もしかし
たら、悲しく、声を詰まらせた様な表情を浮かべた人が居るかもしれない」言う「可能性」を持ち続ける事は、「無
駄に賢い」どころか、私は「無駄を切り捨てない賢明な方」だと思います。例えば、そう思って下さる方が、「気配
り」がお上手な方なのではないかと、考えたり致します。笑っていいとも!と言う番組で司会を務めていらしたタモ
リさん、天才バカボンや「おそ松さん(私の場合は世代的に「おそ松くん」ですが(汗)
」で有名な赤塚不二夫さんへの弔辞を即興もしくは暗唱で読まれたが故に、何故そんなにすらすら言葉が出てくるの
だろうか?と言う逸話に対し、かたや最近のタモリステーションでは、司会にも関わらず敢えて一歩引いた目線で逆
に「多くを語らず」と場合によった対応の仕方が非常に「対照的」だと感じました。相手に合わせた話し方がお上手
で、言葉が淀みなく出てくる方と言うのは、相手の事情を慮った気配りが更にお上手なのだろう、と思う次第です。
それに関しては、以前お話に挙げた鈴木健二さんも同様に見る事が出来ます。当時は、やはりスマホ等SNS媒体等
は全くなく、言葉に触れる場が「本」や「辞書」等の紙ベース、そして手っ取り早い方法はやはり、「外」において
の「人との会話」でしたから、その世代の方々での流暢さにまで辿りつくまでの研鑽や努力は、並大抵のものでは無
かったでしょうね。お二方「道」は違いますが「一つの芸道」を極められた方ですから「敬服」致します。誰に何を
話そうか?と事前に考えておく事に関しては、「一種」の「台本」を持っている事と同じだと思います。
恐らく、お話が上手な方は、その人その人に対する基本的な「台本」を1つずつ持っているのではないか?と最近思
うのです。その上で、一つでも多く台本無しで自分の気持ちを相手に「恣意的」ではなく「客観的」に話せるように
なりたい、と言うのが勝手ながら、今の私の目標です(汗)話が色々な方向へそれてしまいましたが、例えばひとつ
先述の「可能性」を持ち続ける事は、相手に対する自身の「台本」を持つ為の大事な「行為」だと思います。「頑張
れ」とか、そういった言葉をかけるまで行かなくとも、そういった方々が、まだ残っているという事を案じるだけで
も、相手に対する関わり方がひとつ変わるのではないか?と思います。来週から4月ですが、手洗いうがいを励行
し、風邪などひかず体調に気を付けて下さい。