こんにちは。Wam四箇郷校です。触れるのを失念しておりまして、先週の金曜日は「立春」でしたね。暦に続いて、
個々の春がやって来て欲しい、とお祈りする次第です。さて、前回は金星の見え方から、勝手にお話を広げてしまいま
したが(汗)、今回も恐らく、「天体」に関連する事からお話を広げる事になるかもしれません。以前何度か話題に挙
げたとは思いますが、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」と言う作品からです。かの池上彰さんも影響を大きく受け
たとされている本ですが、「歴史」でも出てくるコペルニクスが唱えた「地動説」と、以前はそれが正しいと信じられ
ていた「天動説」を素材として、「ものの見方」の大切さを説いたエピソードがあります。端的に申せば、「地動」の
意味は「地」球自身が運「動」(「動」いている)している事、それに対して「天動」は地球を中心にして、「天」
(空)にある物(天体)が「動」いているという解釈です。これを、「自身」という「一人間」と相手(この場合は
「自分」以外の「人間」に拘わらず、「自分」以外のあらゆる物全てと言う解釈で良いと思います)との関係に置き換
えてみると、「地動説」は、「相手」を「色々な角度」から見る為に「自分自身」が「動」いている、言い換えれば、
「相手中心」の思考で「動」いている事に対し、「天動説」は、自分が中心として「動」かずに「相手」が動いている
と判断する故、「相手」の「違う角度」を見る事が前者よりは難しくなってしまう可能性がある「自分中心」の考えと
いう風に解釈出来ると、私自身は読み取れます。現在は、「地動説」が「ものの見方」の「正しい考え方」として、恐
らく「当たり前」の事として定着しています。だとすれば逆に「天動説」は「天動説」という「考え方」は現在では一
切必要ないのではないか・・・?それは、作中の言葉を借りるのですが、「宇宙の真理」にたどり着く為の「過程」と
しては、「かつて正しい」とされていた「天動説」を「じゃあ、もういらんやん」と真っ向から否定する事は、私自身
は違うと思うのです。「地動説」を導き出す為に「天動説」は必要だったという意味で「天動説」は「正しい」と感じ
ます。それまで、「正しい」とされて来た事を、後から出てきた事に否定されるとすれば、それが「正しい」事と感じ
る部分はあっても、人であれば一瞬「やり直し」や「作り直し」の「苦しさ」や「面倒臭さ」を感じる可能性があるで
しょうか?疑問を以て、思い切って、「見方」を変えて「太陽が東から西に沈むのは、「相手自身(太陽)」が「動」
いているからのではなくて、「自分自身(地球)」が半時計周り(西から東)に自転して「動」いているからそう見え
ているんだ」とか、「日本に「四季」があるのは、「相手自身(太陽)」が動いているのではなくて、「自分自身(地
球)」が「相手(太陽)」の周りを1年かけて一周しているからなんだ」という考え方を、それまでの「常識」と入れ替えて大
衆の方々に理解して貰う為の過程は、コペルニクス一代のみでは立ち行かなく、百年単位で時間がかかった事を考える
と、例えば「信念」という言葉は、おいそれと簡単に口に出してはいけないと思うと同時に、背負ってしまうと、立ち上が
れなくなる程、重みを持っている「言葉」の様な感じも致します(汗)。
一代では立ち行かなかったという事は、こちらも作中の言葉を拝借しますが、人はやはり「広い世の中の
一分子」という事なのでしょうか?自分が「正しい」と思ったことを貫き通す事は、多分「相手」との衝突が出てくる
かもしれませんから、それを覚悟の上で、自分が「ブレない」為に「正しい」と言える「根拠」を「地動説」の観点で
持つ「心構え」が大切なのだろう、と考えます。そういう意味では、「言葉」は必要でしょうね(笑)また、「自分の
事」にきちんと余裕を持てた上で「相手」の事を考えなさい!と言う「考え方」も大事だとは思います。これまでの内
容をひったくるめて、「臨機応変」と言ってしまえば、「華がない」かもしれませんが(笑)この場合の「天動説」と
「地動説」は、作中においてはあくまで人の「ものの見方」を比較する為の説明素材の「知識」ではありましたが、コ
ペルニクスは「信念」を貫き通す段階で、周りからどれほどの汚い「言葉」や「行為」で迫害を受けたのか・・・?と
いう事が私自身、勝手に案じられますが、「物事を継続する事」はそれだけ、「ものの見方」の「柔軟」さも大事です
し、「考え方」(≒「信念」)も大切なのだなと感じる一説です。朝晩はかなり冷え込みますから、手洗いうがいを励
行し、出来るだけの予防対策を行った上で体調にはくれぐれも気を付けて下さい。