今の社会は便利なことで溢れている。知りたい情報はインターネット上にあるし、欲しいものがあればわざわざその場所に出向いていかなくてもネットで注文できる。市場経済が全般にわたって浸透することにより、あらゆるものが商品となり、時間の節約もできるようになった。今やそれがない生活は考えられないほどに、生活の中に市場経済の原理がしみ込んでいる。
あらゆるものが商品になったということは、あらゆるものが交換可能なものになったということでもある。そして、その交換の際には常に価値の測定がなされる。多くの場面では、こちらが差し出すものはお金であり、そのお金を払うほどの価値があるものなのかどうかが検討される。価値があると判断されれば交換は成立し、そうでなければ成立しない。実にシンプルでわかりやすい。
しかし、これには問題もある。一つは、すべてのものが交換可能・測定可能であると考えるのは間違いだということ。もう一つは、市場経済においては無時間的な考え方にとらわれてしまうということである。
第二の問題点について、詳しいことはまたの機会に述べたいと思うので、今回は第一について見ていくことにする。
第一の点について、あらゆるものが交換可能という考え方に依拠しすぎると、本来的に価値を測定できないものにまでその考え方を演繹してしまうことになる。市場経済における消費者像は、自分の差し出すものと受け取るものの価値を天秤にかけ、受け取ったものの価値が差し出したものの価値と同等かそれ以上であることを望む。差し出したものの価値の方が上回ることに我慢ができない。何かをすれば必ず見返りがあるはずだと考えてしまうようになる。
しかし実際には、満足できるほどの見返りがあるとも限らない。にもかかわらず、上記のような考えに囚われていると、そういった見返りのないものはすべて無駄と断じてしまう。なにかにつけて「これは何の役に立つのですか」と尋ねてくる人は、このことを自覚し、何かやったときには必ず見返りがあるはずだという考え方に疑義を呈してみる必要があるだろう。
もちろん、そのように考えてしまう人が悪いわけではない。むしろこれは自然過程でそうなってしまう、という話である。資本主義経済では、人々が余計なことを考えずに己の経済活動に専念することが期待されており、したがってそれは社会制度からの要求でもある。ただ、時には冷静になって、今の社会制度の中で生きている自分について、自分の考え方について自覚してみることは重要だと思う。