こんにちは。Wam四箇郷校です。一月もあと数日ですね。今週、私が教室へ向かう道中の一部になっている、地蔵の辻交差点から嘉家作丁方面へ続く並木道に「お花見」の観客の方々がちらほらと見られました。早咲きの桜が拝めるという事でツイッターでも上げられる程有名らしいですが、「開花」の知らせが、早くも広がっているのでしょうか?概ね毎日、人の姿を見かける次第です。「古典的な季節」「景観的な季節」としては、「気持ち」少し早いでしょうが、もう「春」ですね。世情と矛盾する様ですが、「季節の移ろい」を愉しむ術の一つとして、たかが「お花見」されど「お花見」の如く、個人的には「見る人の数」は増えて欲しいと思っております。同じく、もうすぐ梅の花や、暖かくなればツツジの花を、と期待されている方も多いでしょうか?入試が近い時期もあり、色々な文章教材に触れております。勝手ながら、授業自体やはり疲れてしまうのもあり、立場上出来ればしたくないのですが(汗)、その反面新たな「発見」が有ったり、今まで触れてきた著書内容と層菓子の様に次々と「重複」する事が記されてあったり、ジレンマを持ちつつの環状作業になってしまっております(汗)よくも悪くも止められない状態ですが、自身を強制的に動かす為のある程度の「口実」を少しはもっておく事は、「学ぶ」事に対する動機作りとしては、必要であっても良いのではないかとも思います。それらの中には、「どうでもいい」と即される事もその時々にあるかと思います。ですが、季節や時間の移ろいを出来れば「外に出て五感を使って実感する」と言う「慣習」はいつの時代でも残ってほしいなと、思う次第です。桑子敏雄さんの「何のための「教養」か」を言う著書の一部を問題として用いました。「教養は幸運な時には飾りになるが、不運な時には命綱になる」との一節があり、何が起こるか分からない先の見えない人生の道標を形容したかの様にも思えます。「自分」と言う一個人が、(出来れば)心からそう感じていられればそれで良いとは思うのですが、周囲からの評価は違っても、自身が、平凡でも裕福でも、概ね生活について満足感を得られている、または今の生活が続けば良いと「不安」や「恐怖」を殆ど自覚しない「状態」であれば、その「状態」は恐らく「幸福」と定義して良いのであろうか?と感じた次第です。反面、一方で東日本大震災発生直後のドキュメント題材国語の教科書で取り扱ったのですが、もし、「仕事」や「学校」「日々の愉しみ」等、「今の生活」を覆して奪ってしまう様な「状況」に一変した時、「電力を介した通信手段が使えない」とすれば、最後の情報手段として「新聞」が読まれるかもしれません。恐らく、現状の通信の優先順位としては、デジタルからアナログに遡る形として、スマホや携帯→テレビ→ラジオ→新聞と言ったような感じでしょうか?「「いつもの様」に新聞が届いた事に、すがるような気持ちで読み、自分の心を納得させる時間と空間を与えてくれた」と感じた方もいらっしゃったそうです。今や、大きな地震が起きれば、あらん限りの情報媒体が「津波逃げて」と声高に叫び、そして、周囲の自治体放送網が「警報を鳴らす」など、次ぐ災害に備えて、すごく敏感な時代になったと思います。「津波は数十センチの高さでも大人が普通に流される」「津波がもし起きたら、どこへ避難するのか?」等、知っているだけ、分かっているだけでは、そして、「いつも通り」の日常内ではこれはただの「知識」の域を超えないのでしょうね。例えばここまでで習った内容を「授業」とすれば、「数十センチの津波でも大人が不通に流されるのであれば、どんな手段で、どの道を通って逃げればよいのか?」「一番に挙げていた避難先が地震や二次災害で倒壊・消失した場合の避難先は考えているのか?もしくは複数の候補を考えているのか?」恐らくですが、これらが自身で導き出せた「教養」ではないか?と考えます。「いつも通り」の真っ只中に居て「不安」や「恐怖」を感じにくい時分は確かに「実用性」に乏しい「知識」に溢れているでしょうが、一つ学んだ「知識」を自分の形で「他の可能性」と繋ぐことが出来る「能力」もしくは繋ごうとする「習慣」自体が「教養」と定義して良いのではないかと思うのです。繰り返して、世情と矛盾するでしょうが「出来れば」外に出て「色々な人」と会話する中で自分の「繋ぐ力」を磨ければよいな・・・とやはり考えます。花一つでも「知識」を得るだけで、どんな事と繋げられるのか繋いだ繋げた「知識」自体よりは、「繋ぐ」「習慣」が大事なのでしょうね。
願わくば「いつも通り」にまた、外に出て、会話したいですね。
まだまだ、寒いですから、口腔内の乾燥を防ぐ為にうがいを、そして手洗いを励行して、体調にはくれぐれも気を付けて下さい。