教室ブログ

2022.01.07

【新年の「挨拶」】

 こんにちは。Wam四箇郷校です。新年明けましておめでとうございます。または、寒中お見舞い申し上げます。本年も、賑や

かな教室運営が出来る様、邁進して参ろうと思います。宜しくお願い致します。・・・と時候の挨拶に絡める、恐らく約50回分

の今年1回目のブログのテーマは、「挨拶」について「気まま」に述べよう、と思います。作文教材の一つとして、先日お名前を

挙げさせて頂きました長田弘さんの「なつかしい時間」と言うエッセイの中に「挨拶」をテーマにしたものがあります。「挨

拶」の、「挨」は「押す」、「拶」は「押し返す」と言う意味を持った上での(自分と)相手が有っての「言葉」とされてお

り、また、相手を労ったり、見知らぬ者同士がお互いの存在を認め合う等の役割を持つ「言葉」とも記されておりました。た

だ、時代の変遷につれて、「言葉」を介した「挨拶」や、また、「笑顔」等の言葉を介さない「挨拶」も、(恐らくですが、通

信技術等の発達につれて、気軽に繋がれる「人」「機会」が増えた事等により)「用心」を以って「直接的」な「挨拶」を噤む

人が増えた事を、憂えて居られるかの様にも受け取れた次第です(汗)。例えば、相手の「仏頂面」を見ていたり、またはその

様な「表情」や「言葉」で接されると「気分を害してしまう(だろう)」事は恐らく、永年変わっておりませんのに、「形式

的」な場面でもない限り、ふっと「笑顔」を見せられて「警戒心」や「自分の「物差し」に合わない故の不快感」を抱かれる様

になって終うとしましたらば、全ての人にそれを諫める意味では無いですが、正に長田さんの仰る様に、「挨拶の言葉にまるで

窮する」と言うのは最早そういう事なのかもしれないですね。「笑顔」か「仏頂面」かをもしくは「愛想」か「不愛想」かを

「個人の感覚」によって振り分けられるのは、やはり「相手」が「人間」だからではないか?と思うのですが、かねてから申し

ている「機械」や「ロボット」に「笑顔」を求める「時代」がいずれとうとうやって来るとしたらば、もはや「人間」と「その

笑顔」は「必要無くなるのかもしれないですね(汗)。」別に「笑顔」が無くてもコミュニケーションはとれるでしょうから

(汗)。ですが、その「笑顔」だけでは無く、「挨拶」の方法には、「言葉」を介した物や「笑顔」だけではなく、「鉢植えの

花」なども例に挙げられております。「道行く人」によっては、見向きもされないかもしれませんが、ある人は季節の花を目に

する事により「春夏秋冬」を感じる事によって、「衣替え」や「食べ物」を連想するきっかけになったりするでしょうし、例え

ば「家主」が「防犯目的」で設置したイルミネーションを客観的に「あの家派っ手やな~派手好きやな~」と感じる方も居れ

ば、「いつも明るいから夜でも安心して歩ける」等の「自分勝手なちょっとした親切心」を感じてくれる方もいるかもしれませ

ん。この先述したこの3者、イルミネーションの役割故の「動機」や「感じ方」が「全く違う」のです、「全く」。おまけです

が、第4者の私を入れると、地元を離れた外出先での「目印」「起点」の役割になるのですね。私も3例目の件と同じく「ちょ

っとした親切心」を感じる次第です(実は私の場合は「イルミネーション」ではないのですが・・・)。新しく、年末に池上彰

さんの「なぜ読解力が必要なのか?」と言う著書を購入し、読み進めて居ります。その中に「情緒的読解力」と「論理的読解

力」と言う、場合によって使い分けるべき2つの読解力が有ると記されているのですが、これって、「自分の中」だけで「勝手に

解釈してしまう事」は、すごく危険な事だと、仰られている様な所感を受けます。それは、私自身に対してもなのですが(汗)

不意に突然、「何らかの違和感」を感じる場面が出て来る事は十分に有り得るのですが、「思考」を「自身で止めてしまわな

い」意味で、ある程度、外に出て、間違っても良いから「自分なりに相手の意向を察したり、聞いたり」してみて、相手の意向

を少しでも汲み入れた「解釈」を考えてみる事が、色々な形の「挨拶」を相手から感じ取れたり、また自分が考え付けたりする

のかもしれないですね。「大寒」に向けて寒さが、更に増して来る様ですので、体調にはくれぐれも気を付けて下さい。

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