こんにちは。Wam四箇郷校です。深夜の気温は最早1桁が概ね恒常的になり、運動でもしないと思わず身震いしてしまいそうな寒
さですね。風邪等はひかれていないでしょうか?個人的に寒い時は、やっぱり「運動」と「読書」と「惰眠」ですね(笑)先日
の養老さんの著書より引き続き、少しずつ小論文の赤本を「読書」しておりますが、「白杖(はくじょう)」という言葉でピン
と来られる方は居りますでしょうか?ピンと来られた方は、タイムリーな部分もありますが、私も見て居りました(笑)。デザ
ートも出ましたし(笑)。白杖は「視覚」に「障害」を負われている方が歩行補助の為に使用する杖と定義されております。そ
れを踏まえた上でですが。歩行者信号が青色になっているにも関わらず、横断歩道を渡らない男性を訝しく感じた(恐らく)少
女が、その男性をのぞき込んでみると、その手に「白杖」を持っていたそうです。「青」なのに車の往来が無い、音の出る信号
ではない等の「原因」があり、渡る事を「躊躇って」いたそうです。その少女も声をかけようか否かを初めは「躊躇った」が、
その男性と「腕を組み」「ペースを合わせる」形で周囲の景色を説明しながら「歩行補助」をした、と言うエピソードです。そ
の後も、その「おっちゃん」との交流は続いた模様です。少女が心に残ったというおっちゃんのコメントを凝縮しますが「普通
「おっちゃん」が「女の子」と「肩を組んで」歩く事無いから幸せや。せやから悪いことばかりではない。見方を変えるっちゅ
うのが大切なんやね」・・・関西人は「冗談」は言うけれど「嘘」はつかん、と言う言葉を聞いたことがありますが、それ「ら
しく」個人的には、少女に対する「労い」を含んだ「ユーモア性」をすごく感じる一節です。色々な「世界」「業界」に言える
ことかもしれませんが、こっち側にばかりいたから、あっち側の「気持ち」が「主体的」に分からなかったが、今度あっち側が
「こっち側」に変わると、以前は「こっち側」だった「あっち側」の気持ちを自分の経験上等に重ねながら「主体的に」読み取
る「機会」が出来るのでは無いか?と思うのです。以前の「あっち」が「こっち」になると「あの人はいつもこういう気持ちだ
ったのか・・・?」と言う事象が積み重なって、次第に批判や悪口の数が消えていく感覚を覚えて「見方が変わる」と言うの
は、まさに理想の体感の瞬間の一つの様な気が致します。今(まで)の自分の中に、もう一つ「何か」を詰められないか?もう
一つ「何か」を得たい、そう思った時に、やっぱり大切になってくるのは、「時間」の余裕を作る事が第一に上がってくると思
うのですね。あくまで、私自身の「主観」で、以前もこのブログで申したのですが、自分に「余裕」のない方って、自分の事を
「恣意的」に考えているような気がするのです。「見方を変えれば」相手の動きに合わせられていないから、表現が悪いですが
相手が自分の「障害」になってしまう気がするのです。それ故に、「大人」が忙しいから助けている暇が無い、100%素通りす
る、触らぬ神に祟りなしがスマートと言うのも「理解できる」と言う物言いがすごく刺さるのですね。「理解できる」と言われ
ているから余計にです(汗)打算的ですが「時間」の「計算」の習慣と言う物は、今も昔もやはり「大切」だと思うのです。も
う少し時間が有れば、人一人対応する余裕が有ったのに・・・と言う「考え方」、転じて目の前の一つ一つの作業はあくまで
「伏線」で、目的は最後の最後で数分の「余裕」を作っておく為と言う「考え方」は、今も昔もやはり大切だと思うのです。
「部分的な表面上の忙しさ」だけしか捉えずに、「せっかち」とか「気忙しい」等と解釈するのは、少し考えが浅いように思え
るのです。また、少女は「大人になると「心の視力」が落ちる」と表現していますが、単純に「見れる」「見れない」の意味で
は無く、「見える(見る)べきでない形で見えてしまう(見てしまう)」と意味の様にも私自身は受け取れるのですね。まだ年
端もいかない少女、と言っては失礼ですが、彼女のこのエピソードは非常に貴重だと思う次第です。余談ですが、元NHKアナ
ウンサーの鈴木健二さん、「時間の事前計算」がお上手でかつ「明朗饒舌」なのですね。個人的に感心する次第で、見習いたい
物です。あの「白杖」の番組も「心の視力」をこちらが測られていたのでしょうか!?あと2週間余りで年末ですが、体調に留ま
らず、怪我等もせぬ様、体には十二分に気を付けて下さい。