こんにちは。Wam四箇郷校です。12月も早やもう半ばで、年内にこのブログを書く機会も今回を含めてあと3回なのか・・・と
いう側面で見てみると、「なんだかんだで、一年経ったのだな」とふと顧みるきっかけになったり致します。見方を変えると、
年始の時点では、50回ほど有った訳ですから、「積み重ね」と言うものは意外と侮れないものですね(笑)。2017年の10月から
の毎週金曜日の「機会」の回数は、4年と少し経って累計200回を数えておりました(汗)同じ話題について言い回しを変えたて
リメイクした物、新たな所感が生まれて更に添加した物、他人の言葉や感受性に触れて学びになった事等、思いつくままに書き
連ねてきた物が恐らく殆どだなと思います。たまに、読み返してみるのですが、それらの中には今の私に必要な物(必要だった
物)、もしくは必要でない物(見方を変えれば、まだ必要でない物いずれ必要になるかもしれない物)、逆に必要としていた
が、今は必要としてない物等が、信号の様にその時その時で立ち消え変わり、当時の状況とリンクしながら「この時はこんな気
持ちだったのか・・・!?」と自分に対して他人事の様に振り返る事が勝手ながら、趣深いのですね。一種の長期的な「日記」
の様な物なのでしょうね。「短期的」には「必要ない」範囲に区分けされそうですが、「長期的」には当時の自分と、今の自分
とのいろいろな「違い」のズレが出ていないかの「自己確認」をする為に「必要」なのかもしれません。大学入試共通テストが
身近に迫って参りましたが、とある大学の2次試験の小論文問題の題材として、作家・養老孟司さんの文書が使用されておりまし
た。「すべてのものには意味がある。都会人が暗黙にそう思うのは当然である。なぜなら周囲に意味のあるものしか置かないか
らである(ママ)」私からすれば、都会人と言う接頭語はとりあえず置いといた上でになりますが、「自分」を取り巻いている
周りには、恐らくそれらの殆どが「自分」にとっては確かに「意味」のある物なのだろうと思うのです。朝起きてから、夜寝る
までの「一連の行動」に対して、「習慣」や「慣れ」が出てしまえば、気にならなくなって、疑うことなく「自然」に自分に取
り込んだ形で、「ルーティンワーク」の様に行える様な気がします。ただこの「自然」にと言う言い回しが曲者で、気にならな
くなるという事は、自分のいわゆる「邪魔」にならない存在であり、それが例えば2極論で言えば「善い」か「悪い」かを考える
機会を知らない内に消し去ってしまう事につながる可能性も否定出来ないのですね。「意味」のある物しか置いていないとすれ
ば、「意味」がないと判断した「物」には、果たしてどんな所感を以って、それを「表現」されるでしょうか?出来れば、確か
に、自分の時間を奪わない、「邪魔」な物は無いに越したことは無いでしょうから、それらについて学んだり、調べたり、今更
取り込んだり等という事は、今の「自分」が崩れるかしれないですから、出来ればしたくないのは、「自然」な事なのかもしれ
ないですね。同じく文中においての、昭和天皇が「雑草」と言う表現をした侍従の方を「雑草と言う物は無い」「不勉強故に草
の名前が分からないだけでしょう!」と立て続けに叱ったエピソードは個人的に共感が持てました。「じゃあ、貴方は草の名前
が全部わかるのか!?」と言う反論をするか否か?そこが「問題」ではなく、「名前」や「役割」等、その「存在」の「意味」
を知ると「関わり方」が変わる可能性がある、かつ一つだけでも「それ」を知ると、「触れ方」や「見方」が変わる「きっか
け」になる気が致します。私事ですが、「アシタカグモ」と言う蜘蛛の「存在」と「名前」を知らなかったのですね。家の中に
住み着く蜘蛛として有名の様ですが、この蜘蛛は、ゴキブリなどの害虫を捕食してくれる蜘蛛なのですね。以前は、「大きな蜘
蛛」と言う「見た目」やそれから感じる「不気味さ」故に、有無を言わさず殺虫剤を振りかけてしまっていたのですが、害を加
えたり近づこうとしなければ、嚙みつかない等と言う知識も頂けると就寝前に天井に張り付かれても、気にも留めなくなってし
まっている自分がいたのです。心なしか、実際ゴキブリの姿をここ何か月も見ていないのですね。養老さんの言い回しを拝借す
れば、「意味」のなかった物が「意味」のある物に変わったエピソードだったと思います。踏まえて、いつその様に変わるかは
分からないですし、これからも何がそう取り込まれるかも分からないでしょうから、余裕のある内は、もしくは余裕を作って、
「自分にとって」の「意味」の「ある」「なし」に拘らず、「学ぶ」姿勢と言う物は大事なのではないかと思います。しかもこ
のアシタカグモ、結構臆病らしいです・・・。寒い日が続きますので、手洗いうがいを励行し、体調にはくれぐれも気を付けて
下さい。