こんにちは。Wam四箇郷校です。10月も終盤、今年もあと2か月ですね。「暑い」の言葉の比率が「寒い」の言葉の比率に少し
ずつ変わりつつ有る自況です(笑)。「衣替え」も概ね済みつつあるでしょうか?定期テストも、方法の概ねは実施まであと1か
月ほどですかね。さて、先日「説明する力」というタイトルで、延々長々と述べさせて頂きました(汗)定期テストが返却さ
れ、各教科「定番」ではあるのですが、記述問題なるものが出題されます。「ここテストでよく出るから覚えておくんです
よ!?」点数を取って結果を出して貰うという意味では、先達の方が率先してそう仰る光景は、致し方ない部分も有ろうかと思
います。私自身も例に漏れず、自身の学ぶ意欲としての「覚えたい」気持ちをそっちのけにして「覚えさせる」ベクトルに矯正
する事は、やはり「矛盾」も有り、心苦しい部分は正直有るので・・・(汗)。そもそも、「覚えている事」と「説明出来る
事」は根本的に違うと思うのですね。一語調で申せば前者は「暗記」で後者は先週の言葉を借りれば「理解」や「納得」でしょ
うか?「知識」としての定着、ないしは「記憶」の剝がれにくさででも言えば、どちらがどうであろうか?と言う疑問も自ずと
晴れてくると思うのです。「問題」を「解く」と言う作業は、実は「単純」に見えて、自身の「論理力」や「表現力」を試され
ている事に繋がっていると思います。それらを「将来」に向け「教科学習」と言う形を通じて、育てさせてくれているとすれ
ば、本来であれば、それに乗らない手は無いと思うのですね。「矯正」する為に、敢えて「強制」はしませんが(笑)。野村克
也さんの件を交えますが、野村さんは選手指導の際は、あくまで「矯正」の為の「強制」では無く、基本は「相手」に考えさせ
る「考え方」の持ち主だったそうです。「何も考えずに漫然と取り組んでいると、遅かれ早かれ壁にぶつかる事になる。指導者
とは「~とは」と言う本質を問いかけながら自分の頭で考えるように導いて行く事が重要だろう(原文ママ)」と言うのは野村
さんの著書の一説です。この一説だけを取れば、指導者とは~の下りは、個人的には、指導者→教わる方へ向けた表現、教わる方
→指導者へ向けた表現の、2通りの意味に捉えられるので、少しドキリとする部分なのです(汗)。そしてもう一つなのですが
「結果論で感情的に叱るのは最悪の指導法だ。叱る時は次の成功に繋がる様な気づきを与えるべきである(原文ママ)」と言
う一説も有ります。野村さんはキャッチャー現役時代、当時の監督に「相手バッターに打たれた結果」「のみ」に基づいて、感
情的に叱られていたそうです。つまり、「得るもの」が無かったのだと思います。それを「教訓」とされたのか、ご自身が監督
になられた際は、「目で見た結果」「のみ」でなく、準備の有る無し等、自分を「理解」「納得」させられる考えの下で打席に
立った否かによって「叱る基準」を決められたそうです。私自身もそれに「納得」した分、それを見極める為の「経験」もそう
ですが、「論理力」そして「表現力(言葉)」が必要なのだろうなと感じるのです。感情的に自己中心に「怒り」を振りまいて
いると、周りからやはり人が離れていく気がして、根本的な解決にならないのでしょうね。そうならない為に、かつ、反面その
現役の立場の方の「準備」に関しても、「準備」を組み立てる為に、「なんとなく」にならない様に、「~とは」についてのと
りあえずの結論を出す為にも、やはり「言葉」が必要なのだろうと感じます。例え、たかがテストの記述でもいずれ成人して
「原理」を「理解」する習慣がついて、「説明する力」が付けば、むやみやたらな「怒り」の振りまきはまず無くなると私自身
は感じます。むしろこちらからアクションを取らなくても、相手から話しかけてくれて会話に困らない気が・・・私に対する好
き嫌いは置いといてですが!(笑)結果は当然大事なのですが、相手の「中身」が自分なりに見えないと、何をどうやりとりし
て良いのかがやはり分からなくなるでしょうから、お互いの手の内を見える化する為には、やはり言葉は大切なのでしょうね
(笑)自身の「言葉足らず」を相手への「怒り」に変えてしまうのは、相手をも「言葉足らず」にしてしまうかもしれません
ね。勝手ながら、もう一週、「野村さんネタ」で引き延ばすかもしれません(笑)朝晩は、かなり肌寒くなって来ましたから、体
調にはくれぐれもお気をつけて下さい。