教室ブログ

2021.10.24

歴史の勉強シリーズ①「下関条約」

こんにちは(^∀^)兵庫県筑紫が丘校の河合です。

 

最近、諸般の事情で久しぶりに授業をすることが増えてきました。

社会を教える際に、色んな重要語句があると思うのですが、

みんなの反応を見ていると、教科書の説明文だけでは今一つピンときていない言葉もあるようです。

 

なので、このブログを使って色々な重要語句を解説してみたいと思います。

第1回目は、「下関条約」です!(-ω-)/

 

下関条約とは、1894年に始まった日清戦争の翌年に結ばれた講和条約ですね。

 

ざっくり日清戦争開戦後の経緯を説明すると、1894年の8月に日清戦争が始まります。

日本は、近代化により最新鋭の武器や艦隊を揃えており、開戦以来連戦連勝を続けていました。

そして、1895年2月には、とうとう清国の海軍が降参 (*_*)マイッタ

制海権を失った清国は、翌3月に日本に講和の申し入れをします。

かくして、1895年3月に下関で講和への交渉が開かれることになりました。

 

日本の全権大使は総理大臣の伊藤博文(下のイラスト参照)と陸奥宗光(奥さんが美人で有名)、対する清国の代表は李鴻章が交渉に臨みました。

ちなみに、伊藤博文と李鴻章は1885年の天津条約を結んだ時からの旧知の中であり、講和は当初和やかな雰囲気で始まったようです。

伊藤博文さんです。おひげがもっさりしているのがトレードマークですね!

 

最初に李鴻章は、講和に入る前に休戦交渉を申し出ました。

講和会議中も連敗してしまうと、清国はますます不利になってしまいますからね。

これに対し伊藤は交換条件として清国兵の武装解除や休戦中の軍事費を清国が負担するなどの厳しい条件を提示し、

「そんな要求呑めるわけないやん」となった李鴻章は、やむなく休戦を撤回し交渉が始まります。

 

…ところがどっこい、休戦は思わぬ形で実施されることになります。

清国にとっては幸か不幸か、3月24日に李鴻章が講和に反対する日本人青年にピストルで狙撃されてしまいます( ;∀;)

ばーん!輪ゴムだとかわいいものですが、実際にはめちゃくちゃ怖いですよね。

結局命に別状はなかったものの、李鴻章は顔に傷を負ってしまいました。

 

この結果、日本はめちゃくちゃ焦ります。

日清戦争は東アジアの一大事件であり、その動向には海外の列強国であるイギリスやロシアがばっちりチェックしていたからです。

もし李鴻章がこの一件に激怒し本国に帰ってしまったりすると、「日本は戦勝国なのに敗戦国の将を殺そうとするヤバい国」などという

非常にありがたくないレッテルが世界中に拡散されてしまい、列強国がイチャモンをつけて交渉に介入してくる可能性すらあるのです。

(そもそも列強国も清国の領土は欲しいわけで、列強国の介入は日本側にとって要望通りに交渉できなくなるおそれがあります)

よって、日本は事件からわずか4日後に無条件での休戦を病床の李鴻章に伝え、何とか最悪の事態は免れました。

 

その後、交渉は順調に進み、日本は清国に以下の条件提示を行います(細かい内容は他にもありますが)。

 

①清国は朝鮮半島の独立を認めること

②遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に譲ること

③賠償金二億両(当時の日本円にして三億一千万円)を日本に支払う

④沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開港する

これらの条件は、李鴻章にとって予想をはるかに超えた非常に厳しいものでした。

何とか負担を軽くしてもらうよう李鴻章は粘りに粘りましたが、伊藤博文はほとんど譲歩することはありませんでした。

そして、4月17日の第7回会談をもって下関条約が調印されたのです。

(余談ですが、この会談の最中において、李鴻章は「伊藤がこれほどまでに厳酷にして執拗な人間だとは思いもよらなかった」と愚痴をこぼしたそうです)

 

国同士の条約は、以下の流れで結ばれることになっています。

①調印(両国の代表同士が文書にサインすること)

②批准(調印された条約の内容を国が正式に認めること。これがなされて初めて条約は効力をもつことになります)

③締結(条約が正式に取り結ばれます)

 

このまま両国合意のもと、交渉はクライマックスに突入しますが、最後まですんなりとは終わりませんでした。

ロシアは調印された条約の内容を知って「なんじゃこりゃぁぁ!」と発狂します。

条約内容には、ロシアが狙っていた遼東半島を日本に譲ると書かれていたからです。

 

すぐさまロシアはフランスとドイツを誘って日本の外務省に圧力をかけます(いわゆる、三国干渉です)。

「日本が遼東半島を恒久的に領有することは東アジアの平和を乱すものである」として遼東半島の返還を求めました。

(言葉の裏には、「逆らったらどうなるかわかってんよな」という怒りが垣間見えておっかないです)

日本にとっては、外国との本格的な条約交渉はまだ不慣れであり、内容が決まってから諸外国に開示したのが仇になったわけですね。

 

日清戦争を終えたばかりでヘトヘトの日本に、当然ロシアを相手に戦う力など残っていません。

それどころか、清国とロシアが接近したら、最悪のケースとして遼東半島どころか条約の批准ごとおじゃんにされてしまう危険性もありました。

やむなく、日本は遼東半島の返還を決断し、ようやく下関条約が締結されることになりました。

 

お父さん(ロシア)と子ども(日本)。力関係で言うとこんな感じでしょうか?

結局ロシアは、清国が日本に支払う賠償金を貸す代わりとして、遼東半島を含んだ清国北部の領土を租借し、支配を強めていきます。

そして、日本では反ロシアの機運が高まり、下関条約の9年後に日露戦争で対峙することになるのです。

 

いかがだったでしょうか?

教科書ではさらっと書かれてある出来事も、実はその背景には様々なドラマがあるのです。

今後も不定期ではありますが、このようなブログを載せていこうと思います。

ぜひ、ご自身の勉強にお役立てください(^∀^)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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