こんにちは。Wam四箇郷校です。今日から10月になり、朝晩は本当に過ごし易くなりました。蒸し暑さも無くなり、風が気持ち
いい位です(笑)そろそろ学校の方では、中間テストの時期で、既に終わった所も、これからの所も有り、それぞれ思い思いで
しょうか?所で「秋」の最中、私の方でも多少なりの「読書」をしておりますが、国語の教科書も新しく変わった為、その中に
入っております。紀ノ川中3年生においては「幸福について」と言う、作品を行っている様ですね。生徒から初めて題名を聞いた
時「えっ?そんな「重たい」タイトルやってんの!?」と少し心中びっくり致しました(汗)。3人(3匹?)の登場人物が、
「幸福とは何ぞや?」という事を議論展開していく内容と受け取れます。私個人的な「見解」「結論」を申すのですがあくま
で、「幸福とは何ぞや?」が作中の念頭で、「何が幸せか?もしくはそう感じるのか?」ではないのですね。ですが、お話を読
み進めていく毎に「その方向」にベクトルが向かっている様にも受け取れますね(笑)。幸福とは何か?という事を、3人は議論
の中で色々な形で「定義」していきます。「お金」「喜び」「充実感」はたまた末は「危ないクスリ」そして「平和」また、は
っきりとは書いてはおりませんが、私独自の解釈で美味しい物を食べられた後の「満足感」等、色々な形で「定義」していきま
したが、結局、「これだ!」という国語的な表現で申せば「解答」は出ず終いで終わります。ただ、この作品について大切なの
は、話し合いによる「議論」で「意見交換」しながら、お互いの考えを「深める」事なのでしょうね。納得のいかない物言いも
恐らく出て来るでしょうが、はっと気づかされる「知らない」「本心」に出会う事も有るかもしれません。先週、読書の「意
味」として、その本に「個性」を与える「意味」で読んだ「意味」を残す必要が有ると申したかと思います。それも読破した自
身にとってのその本の存在意義、いわば「定義」でしょうね。ですが、「幸せ」と言う物は「定義」すればするほど、どんどん
どんどん分からなくなっていくと思います。ですから、個人的に感じたのは、本来の形としては「幸福とは何か?」ではなく、
「何が幸福で?もしくはそう感じるのか?」だと思うのですね。「題名」を生徒から聞いて、長らく聴いていなかったのです
が、中島みゆきさんの「幸福論」と言う作品を思い出しました(汗)。簡単に申せば「人の泣きや不幸に自分の喜びや幸福を見
つけようとしていないか?」問うている物なのですが、「不幸」と感じている自分と同じ仲間を探そうとしたり、どういう時に
自分が「不幸」や「幸せ」を感じるのかをどんどんどんどん「定義」していくのですが、自分の嫌~な部分がどんどんどんどん
あぶりだされてきて、最早抑えが効かなくなってしまって居る様にも感じるのです。
だから、心のどこかでぐっと堪えて、冷静にブレーキをかけて切り返さないとって、思ったりもします。ブログの最後に毎回
「体調に気を付けて下さい」と締めさせて頂いております。例えばですが、無病息災の体が、今私自身の中での一番の資本で、
「有難み」を感じています。もしかしたらですが、学校に、仕事に行かなければならないから、少しは「病弱」な体でも良かっ
た、ともしかしたら、つい思ってしまう方も可能性としては否定出来ませんが、私は現在、「無病息災」が「一番」で「不安」
を感じない「いつも通り」の生活を送れている要因だと考えています。「幸福(感)」やそれに似た物等、その時に感じる「感
情」は抽象的だと思われますが、「広い」範囲で限度のない「具体的」な「感情表現」の中に、「狭い」範囲で受け取れる「抽
象的」な共通項を見出す、言い換えれば、何を以てそう感じるかの「原因」は無限で人それぞれであるが、そう感じる「感情の
種類」は幾つかに限定されて「ある程度共通」でしょうから(笑)それ故「幸福」の「定義」は「華が無い」かもしれません。
もっと言えば「不幸」の「定義」は最早「華すら咲かない(咲けない)」かもしれません(汗)そして改めてもう一つ、「人の
泣きや不幸に自分の喜びや幸福を見つけようとしている」事が「癖」や「依存状態」にならない様、改めて私自身も戒める必要
が有ると感じた作品でした(笑)。気温の変化が大きくなってくると思いますので、「体調にはくれぐれも気を付けて下さい。」