「勉強ってなんの意味があるの?」という質問や、「こんなの習っても社会に出て使わない」という主張をよく耳にする。これらの問いにまともに答えようとして、功利的な理由付けや演出された楽しさを提示する大人も多いが、どうしても空々しく聞こえてしまう。その証拠に、そういった説明を受けた側は納得していないことが多いと感じる。日々生徒たちと接するなかで、そういった功利的な計算に基づいて勉強をしている生徒は皆無に等しい。
そもそも、勉強の意味や社会での有用性を問うてくる本人たちは、本気でその答えを聞きたいわけではない。本気でその答えを聞きたいのであれば、日本で義務教育が導入された背景や学校の目的などを知るために、それこそ勉強するはずである。そうならないのは、それが字面通りの質問ではないからである。要するに、言っていることと真意との間に隔たりがある、ということである。
勉強の意味やその有用性を真剣に考えて、子供たちにも納得してもらえるような説明を用意することは別段悪いことではない。しかし、それでも納得しない子供たちが大勢いるという事実にも目を向けた方が良いし、そうすべきだと考えている。
おそらく大人たちも、どこかで耳にしたような功利的な理由付け(それこそ、自分が子供の時に周囲の大人たちから何度も聞かされたのかもしれない)を言葉にするうちに、そう答えることが正しいことだと思い込んでいるのだろう。それもある意味で仕方のないことである。誰もが似たような回答を口にするものだから、ついついそれが最善の答えだと考えてしまっているように観察される。しかし、その回答が正しいと本当に信じている大人はいるのかどうかは疑問である。
では、どう答えるのが最善なのか。また、彼らの真意は何なのか。それは、またの機会に。とりあえずは問題を提起するに留めておきたいと思う。