こんにちは。Wam四箇郷校です。今週の火曜日は中秋の名月でしたが、皆さんはご覧になられましたでしょうか?雲間に見え
隠れしながらで、少し見辛かったような気がしましたが、個人的には、深夜・朝方の方が見やすかったような気が致しました。
夜空の満月を見た所で、物的な「得」は恐らくないだろうとは、私自身も思います。ですが、常に何かをする事にかこつけて、
いわゆる「損得」を連想、勘定してしまう故に、「不要」と断ち切ってしまう習性は、私自身は危険だと思うのです。「今」の
どの様な事が「将来」の助けや役立ちになると言う事は、誰にも分かりませんから、「その人」自身が「理由」や「動機」を根
拠として持っている上で「必要」だと考えているのであれば、私自身はそれで良いと思うのですね。他者に「共感」出来得る所
も有れば、出来ない所も出て来るでしょうが、それもその方の「普通」や「当たり前」であって、「モラル」や「一般常識」に
影響するまでの事でなければ、「許容」の範囲内では無いかと思いますし、その方の「習慣」や「継続」が、いつどのような所
で「大化け」するかもと言う事も、分かりませんから(笑)人によって、大事なのは、「月」を観賞した事によって感じた「所
感」が「理由」や「言語化」された事により、「動機」や「興味」となって、それが自身の将来になにがしかの「影響」を与え
られる人が少なからずいる可能性が有ると言う事が一つの定義だと思います。先週申した「君たちはどう生きるか」について
も、「読書」をして、「良かった」「感動した」だけで終わってしまっては、「私自身」の「所感」ではありますが「読書」の
意味がほぼないのですよね。「本」にはそれぞれの「個性」が有りますから、読者自身が、「その本」に「個性」を与える意味
で、きちんと「その本」を読んだ「意味」を残す必要が有ると思うのです。例えば、説明出来る力を「継続」して付けていく
「習慣づけ」をする「意味」でどういった所が何ゆえに感動したのか?また、将来の自分に対して「人間性」や「考え方」等、
どういった所が役立つ「知識」や「参考」もしくは「励み」になるのか?それらを自身の中で「形」にする事が「読書」の「意
味」だと思うのですね。月を「どこか」で一つ見るにしても、本を「何か」一冊読むにしても、「感じ方」や「学んだ事」が全
員100%同じ事になると言うのは、恐らくほぼ「100%」無いのですね。その事は、恐らく「自明の理」でしょうから、尚更、そ
の「形」が大切だと思うのです。先日、中学2年の国語の教科書にて、「サハラ砂漠の茶会」と作品を読みました。昨年四箇郷に
赴任して間もない頃のブログにて「美しい花がある。花の美しさと言う様な物はない」という、小林秀雄さんの一節を取り上げ
たのですが、改めて、この言葉が思い浮かびました。「美しい」と感じて発される「美しい」や「beautiful」の「言葉」の存在
自体は「共通」なのですが、何を以て「美しい」や「beautiful」と感じるのかは人ぞれぞれ違うので、「共通」と一口に括れな
いのですね。作中の遊牧民の少年が「何の根拠」も持たずに「その花」を渡した際、相手が「beautiful」と言った場面がそうで
すが、お互いの「美しい」の基準は違っていたかもしれないが、私自身の「所感」として、この場合は、少年の、「根拠」を持
たない「純粋さ」や「美しい」と感じた「自信」が大きな「意味」を持った様に思います。私自身は、少年の「根拠」の有無よ
り、何故相手が花を受け取ってくれたのか?そちらの「根拠」の方が大事だと思うのです。何でもかんでも「根拠化」してしま
うと、それこそ「花」が無いですが(汗)「美しい」と感じる感情は万国共通だからなのでしょうね。例えば、「感謝」の気持
ちで花を一輪貰えただけで、頑張ってきた自分の「人間性」が「考え方」が「肯定」されたと思うと、物的な「得」は何も無い
でしょうし、花もいずれ枯れてしまいますが、「形」には残らないでしょうが、何物にも代えがたい物が記憶に残ると思うので
す。簡単に一言で言えば「うれしい!」「有難う」とか「良かった!」になると思います。それでも物的な「得」の面で申せ
ば、本音として、「出来れば花より団子より金くれ!」と言う所なのでしょうが・・・!(笑)「感じる心」は根底として必須
でしょうから、それを土台として「読書」した事、見た事、聞いた事を「根拠」そして「意味」としてきちんと残す(残せる)
事が大事なのでしょうね。寝冷えの時期にもなって来ていますので、風邪などひかぬ様、体調にはくれぐれも気を付けて下さ
い。