こんにちは。Wam四箇郷校です。一つの自然の気まぐれとして、5月の梅雨入りも、一足早い夏の到来の予感としては乙な
物でしょうか(笑)?湿気も有り、少し身体を動かすと汗ばむ感じにもなって来ていますね。体の代謝を上げて、血液の巡り
をよくするチャンスかと思います。さて、その5月の下旬に差し掛かり、テスト期間に入った学校も多いかと思います。1点
でも多く取りたいと思うのが人情でしょうから、日夜見えない所でも頑張っている方も多いかと思います(多いと信じたいで
すが。。。(汗))。直接授業にでもやり取りさせて頂く中で、「解答」と「回答」はやはり違うと思うのですね。
ゆるぎない唯一性の有る物ならば「解答」でしょうし、恐らく統計的に異論反論が出にくく、かつ人と人とのやり取りの中で
普遍性が比較的高く、恐らく常軌を逸脱しないであろう物が「回答」だろうかと勝手に定義したり致します。数学や理科、史
実等、求め方や導き方が予め「解答」として示されている物は、お互い双方一致した時の感じる安心感やスッキリ感は爽快さ
に勝る時が多いかと思うのですが、「回答」として解釈が分かれる物と言うのは中々、どう「理解」して貰うか?というより
は、既に示されている一つの「回答」として、どの様にプロセスを伝えて「納得」して貰うかが考え所かと思ったりします。
それでも数学においても逆に私、生徒に別の「解釈」を示されて、「あっ!これでもいけるやん!!」と思わず少しは有れば
いいのに、思わず恥じらいも無く発生してしまう時が有るのですが、答えを決して一つに限らない「理屈」のやり取りと言う
意味では、一応「解答」と先述した教科に対しても、そう言った面白みが有るなと感じたりするのです。新しい「解釈」を示
されてまた、新しい「理屈」を作るきっかけを与えて貰う事は、どちらが指導する立場か分からなくなってしまうかもしれま
せんが、有難い事だとも思います。テスト前だと、ついつい尖がってしまうのはつくづく反省しつつ、話してくれ易い雰囲気
づくりというのは本当に大事だと思います。話変わって、個人的にな事ですが、漢字・文法言語関連を除いて「国語」の文章
問題ってそうは行かないのですよね。国語は「解答」ではなく、私からすればやはり「回答」なのです。様々な方々が議論し
合って作って下さった教科書、そしてそれに基づいて作られた問題集、学校の先生方が基づいて指導される指導マニュアル、
100%これで良いと言う「解答」は無く、様々な方々がお互いを慮りながら出来上がった「回答」がそこにあるのですね。そ
の「回答」には編纂者の方々のせめてもの「思いやり」が込められていると思います。その答えに自信が無いとかそういう意
味ではないのですね。歌手の中島みゆきさんの物言いを借りますが、「もし、万が一入試や試験で同じもしくは類似の問題が
出て「自分勝手」な「答え」を書けば、その生徒は落第する可能性が有る」のですね。指導する側、問題に答える側も「自分
勝手」にはなれないのですね。「答え見ながらだったら誰でも出来るやんか!」と言われそうですが、特に国語の授業はその
様なリスクを常にはらんでいる為、受け売りの様ですが、上記の中島さんの言葉が残っている以上、国語の授業は「模範解
答」無しでは、哀しいかな出来なくなりました・・・(汗)厭らしいですが、国語での「回答」はあくまで試験や入試などで
の「答え」、「解答」は自分の自信にも繋がる「人間性」「個人の考え方」としての「答え」なのでしょうね。学校を卒業し
てから「国語」として大事なのは、触れた作品の中から、一つでも多くの「普遍性」や「多様性」を拾い上げて、物事を受け
入れる為の「器」をどれだけ大きく出来るかという事が、例えば大切なのではないかと思います。納得が行かない解釈も出て
来るかとは思いますが、「一応の模範」の外側に立って、こう言う見方も有るのだなと言う「受け入れ」の機会として見て頂
けたらな、と思います。堅い話ばかりですが、それでも、「国語」っておもしろいなと思います。余談ですが、「連想ゲー
ム」と言う過去のクイズ番組が幾つか動画サイトでアップされておりまして、個人的にはアナログですが「国語」の「面白
さ」がシンプルに出ていると思います。遊ぶ・学ぶ・休むのバランスを取りつつ、計画を立てながら、体調に気を付けて下さ
い。