今、私の手元に一冊の本があります。
「論語 増補版 全訳中 加地伸行」という本です。
「論語」とは、中国の春秋時代の思想家「孔子」の教えを、孔子の死後に弟子たちがまとめたものです。
論語は文章が簡潔で読みやすいのですが、その簡潔さから解釈しにくい部分が多いのも特徴です。
学校で習うこともあって、論語は日本で最も有名な中国古典だと言っても過言ではないと思います。
ちなみに、小学校の国語の教科書を見てみると、5年生の教科書に論語を紹介するページがありました。
新一万円札の顔となる渋沢栄一さんも論語を読んでいたことで有名です。
さて、このページのタイトル「逝者如斯夫。不舍晝夜。」ですが、これは、冒頭で紹介した本の中に書かれている論語の一節です。
その前の部分も含めて現代語訳を引用します。
”老先生は、ある川の上にお立ちになり、こうおっしゃられた。「流れゆく水流はこのように激しいものか。昼夜を分かたず流れやまない」と。”
※「老先生」とは孔子のことです
簡潔で捉えがたい言葉です。
上の言葉から孔子が何を言いたいのか分かるでしょうか。
手元の本を見るといくつかの解釈が載っています。
その1つは”孔子が時間の経過の早いことを歎いた”というものですし、その他に良い意味に捉える解釈も載っていたりします。
これらは解釈でしかなく、孔子が本当に伝えたかったことなのかは分かりません。
せっかくなので私も1つ解釈を付けてみましょう。
上にある孔子の言葉は、孔子がふと漏らした「特に意味のない言葉」だったのではないか。
それはさすがに違うだろうという声が聞こえてきそうですが、違うと思う方は、何故違うのかを考えてみてください。
そもそも論語は、孔子の死後に弟子たちがまとめたものです。
孔子が日常の中で特に意図なく話したことでも、聞いていた弟子が、それを教えと受け取ってまとめた可能性もあります。
先程の「流れ」についての孔子の言葉は、単なる日常会話の1つだった可能性も、無いとは言い切れないのではないでしょうか。
ただ、私の解釈が正しいと言うつもりもありません。
もしかすると「逝者如斯夫。不舍晝夜。」の話の後にでも、孔子から弟子に対して、これは教えだと示唆する場面があったのかもしれません。
また、孔子が弟子に対して、日常の全てが教えだというようなことを伝えていたかもしれません。
だとすれば、孔子の一挙手一投足が弟子たちにとっての教えとなるかもしれないので、全て論語にまとめる必要がでてきます。
ここまで色々述べてきましたが、結局の所どれも事実ではなく、そうかもしれないという可能性の話でしかありません。
孔子本人が解釈を述べたわけではないので、本当のところは分からないわけです。
では、孔子が何を意図していたか分からないので、「逝者如斯夫。不舍晝夜。」という言葉を読んだり考えたりすることは無意味だということになるのでしょうか。
もちろんそれは違います。
こういうことを言いたかったのではないか、実は意味なんてなかったのではないか。
他の人が書いた解釈を読むことで新しい考え方を取り入れることができるようになりますし、自分自身で言葉の意味を考えていくことは思考力を高めるトレーニングになります。
これは古典を読むときに限らず、どんな勉強をするときでも、日常生活でも大事なことだと思います。
色々な可能性を検討したり、全く違うもの同士を組み合わせたり、常識に外れたことを考えてみたり。
普段からそういったトレーニングを続けていくと、事実に即して客観的に考える力や、問題解決力が付いてきます。
「逝者如斯夫。不舍晝夜。」に限らず、古典とは分からないことばかりな読み物です。
文章に書いてあることしか分からないため、登場人物の心情、表情、その場の雰囲気、天気など、場面を理解するための手がかりが乏しく、出来事をイメージしづらいです。
また、文章が簡潔であれば解釈も人によってまちまちになります。
そもそも大昔のものなので、本当にそんな出来事があったかどうかすらも定かではありません。
そんなよく分からないものを、ただ字面を追うだけではなく、含意を知識や想像力で補いながら、あらゆる可能性を考えていくのが古典の楽しみ方の1つであり、意義だとも思います。