こんにちは。Wam四箇郷校です。本日はイブを明かしてクリスマスですが、思い思いの日を過ごされましたでしょうか?さ
て、今年もあと今日を含めて丁度1週間になりました。本年最後のブログになりますが、私自身新しい舞台で新しい働き方を
学び直す一年であったと言う意味も勝手ながら有るのですが、そういう意味合いも込め、先日に引き続き、吉田松陰氏の以下
の言葉で締め括らせて頂こうと思います。「伐柯(ばっか)遠からず」と言う言葉が有ります。伐柯とは、木を切り倒す斧の
柄(持ち手)の事です。「斧の柄(持ち手)の長さをどうするかを決めるには、手元にある斧の柄を見れば良い」と言う意味
で、転じて、手本とする事はそこにあると言う意味です。言い換えてみれば、先人に学ぶ、もっと言えば、大概の事を新しく
作ったり、学んだりする時、まずは、基本的な事や既に出来上がっている物を参考や手本にする事が王道なのでしょうね。私
も、今の生業の世界に飛び込んで早や7年余りが経ったのですが、飛び込んで間もない頃、そこで出会った方に「正統的周辺
業務」と言う言葉を当時授かりました。ネットの方では「正統的周辺参加」と表現されております。抽象的な言い方をする
と、物事・問題の中心部に入って行ったり、全体像を見渡す為には、まずは外側に見えている物事問題の解決や行動にあたる
事が大切だと言う風に定義出来ると思います。具体例では例えば、会社などで言う「雑用」や「事務」等と位置付けられる物
や、生活的な物で言えば、(出来ればですが)規則正しさや食生活などが挙げられるかと思います。私自身も有ったんで
す・・・。「こんな事して何の役に立つねん?」「こんな簡単で単純な事誰でも出来るやん?」「もっと「いい」仕事がした
い」とか思ってたんです。自虐的に回想すれば、無知で無教養で、その場の感情に振り回されるような恣意的思考が強かった
と思います。チラシ配り、電話応対、掃除、授業・・・etcスーパーで言えばレジ業務であったり、一般企業で言う営業だっ
たりと、他の業種業界にも、他の細々(こまごま)としたものは有るでしょうが、確かに表面上、人目に付きやすい物、人前
に出る事と言うのは、恐らくどちらかと言うと比較的単純そうに見える物が多いかも知れません。よくネットでのあるあるネ
タに上げられますが、新卒面接に訪れた就活生が、トイレ清掃をされている方を蔑む様な態度を取った後、それを見ていた会
社の上役面接官の方に叱責されると言う場面があります。確かに誰にでも出来て簡単そうに見えるかもしれません。でも、そ
ういった作業でも習慣化されてくると「熟練」してくるのですよね。懸命に行っていると、その人にしか分からない事が学べ
てくるのですよね。精神的な「修練」も積まれてくるでしょうね。そのおかげで、今問題の中枢に居る人達が、問題の外に出
て行かなくて済むのですね。また、逆に全てとは言えないですが、かつて問題の外側に居た方々は、それを熟知した上で、問
題の中枢において「指示」や「指導」をされているのだろうかと思います。簡単とか、単純等と言ってその人や仕事を軽んじ
て、「今そこで何が起きているのか」とか「どういう所でどういう事が起きるのか(もしくは起きやすいのか?)」「どうい
う所で何をしてくれているのか?」と言う情報知識が自身で収集出来なくなってしまうと考えると、「指示」や「指導」なん
て的外れもいい所になってしまいそうで・・・こちとら恐ろしい限りです。簡単や単純に見えそうな作業程、実はその存在や
役割が重要でかつ奥深い物だと思います。当時「正統的周辺業務が何故大切か分かるか?」と訊かれた時「下っ端の人達の気
持ちを知る為」なんて答えていました・・・(汗)。これまた、本当に失礼極まりない話です。見えている方々はいわゆる
「顔」であったり「看板」でしょうから、その筋で「熟練」した方が一人でも多く居てくれる事は、外側の守り神的な存在と
して非常に重要だと思います。初心忘るるべからず、基本を重んじ、まずは身近な人や物を手本にし、来年以降も、謙虚に勉
強ですね。12/31(木)~1/3(日)までの4日間は年末年始の休講期間を頂戴致します。今年からは、四箇郷校の方からの
ご挨拶になりますが、本年1年、どうも有難うございました。体調にはくれぐれも気を付けて、どうか良いお年をお迎え下さ
い。