こんにちは。wam高見校です。
秋です。~の秋とは、よく言いますね。今回は、読書の秋にちなんだお話です。
今から900年ほど前のお話です。仏教説話と呼ばれるジャンルです。説話は入試によく出ますよ。
ある青年貴族がいました。早くに両親を亡くし、乳母に育てられました。しかしその乳母も青年貴族が元服(男子の、大人になるための儀式)前に亡くなってしまいます。元服後下級ながら朝廷に仕えることとなった青年は一頭の馬を手に入れました。とてもかしこい馬で、青年の言うことをよく聞いていました。あるとき、青年は役目で都から明石に行くことになりました。途中山賊が青年を襲いました。馬を狙ってのしわざですが、馬が暴れて山賊を二人蹴り殺してしまいました。もちろん相手が山賊ですから、青年が罪に問われることはありませんでした。しかし、馬もそのときケガをして、そのケガが元となって死んでしまいました。青年は悲しみましたが、仕事に必要なため、新たに馬を購入することになりました。馬を見に行くと、生まれたばかりと思われる馬が、青年になついてしまいました。そこで青年は、その馬が成長するまで待つことにしました。その馬に乗ってみて青年は驚きました。歩行のクセやしぐさが死んだ馬にそっくりだったからです。しばらくして、夜中、急に馬が暴れ出しました。青年が驚いて目覚めると、屋敷が火事になっていました。あわてて外に逃げ出しましたが、馬が暴れていなければ、青年は目が覚めずに死んでしまっていたことでしょう。しかし、馬はそのときにヤケドをして、それが元になって死んでしまいました。「私は二度も馬に命を助けられた。」と青年は思い、あるお寺にこもって馬のためにお経をあげることにしました。途中仮眠のときに青年は夢を見ました。夢に出てきたのは、幼い自分を育ててくれた乳母でした。乳母が語りかけます。
「あなたのことが心配で心配で、あの世に行くことができません。ですから、二度馬に生まれ変わってあなたの身をお守りしていました。」と。
目を覚ました青年は、乳母の愛情に感謝しました。そしてそのままその場で出家し、両親と乳母をとむらったそうです。
さて、話はこの後、作者の感想に入るわけですが、作者は片方を誉め、片方を批難しています。青年貴族と乳母、どちらを誉めたのでしょう?
作者は、青年貴族を、「そのままその場で出家し」たことを誉めています。出家してお坊さんになるためには、全ての欲だけでなく、今あるものを全て捨てなければなりません。仏教の開祖ガウダマシッダータも王子の地位、家族を全て捨てましたね。兼好も『徒然草』でこう言っています。「(出家しようとするなら、)全てをすぐに捨てなければならない。」と。そう、青年貴族は、仏教の教えに忠実だったから、作者は彼を誉めたのです。
翻って乳母に対してはどうでしょうか。作者は、「妄執(あるものを手放したくないという感情)があるから、二度も畜生(この場合は馬)に生まれ変わってしまったのだ。」と批難しています。
ここで話は少し仏教に入り込みます。仏教では、全てのもの(動植物全て)に「生命」があると考えます。そして、その「生命」は死後、生前の行いによって、別の肉体に生まれ変わります。例えば、貧乏な家庭に育ったけれども、まじめに努力して仏教の教えをよく守った人は、お金持ちの家に生まれ変わります。逆に罪を犯した者は、いくらお金持ちでも、次には貧乏な家に生まれ変わります。仏教では、これを「六道輪廻(りくどうりんね)」といいます。六道とは、「生命」が生まれ変わる世界のことです。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に分けられます。天道人間道修羅道を三正道、畜生道餓鬼道地獄道を三悪道といいます。この物語の乳母は、畜生道に生まれ変わったわけですね。
ガウダマシッダータは、次のように考えました。どこの世界に生まれ変わろうとも、苦しみはついてまわる。苦しみから逃れるためには、この「生まれ変わり」の輪から抜け出さなければならない。そうするためには、どうすればよいか。たどり着いた答は、「悟りを開く」ことでした。悟りを開けば、輪廻から逃れられます。そして、自分の新たな宇宙で生きることができます。その新たな宇宙のことを「浄土」と言います。悟りを開いた人のことを「如来」と言いますが、その如来の数だけ浄土があるわけですね。阿弥陀如来の極楽浄土、薬師如来の瑠璃光浄土などがよく知られていますね。
仏教という宗教の目的は、この如来になることです。そのためには今あるものを捨てなければなりません。いくら青年貴族のことが心配で、しかもそれが愛情から出たであっても、仏教の教えからするとよくないことなのです。
このように説話一つとってみても、さまざまな知識に触れることができます。読書の秋。本をいっぱい読みましょう。