◆叱られたときに思い出してほしい
叱られたとき、君の周りの大人は、「君のためを思っているからだ」とか、そんなことを言う。
叱られた君は、心の中で「何を馬鹿なことを」と思うかもしれないけれど、これは半分は嘘だが、半分は本音だ。
先に述べておくが、「叱られる」ことと「怒られる」ことは違う。
大人が子供を叱るのは、主に「教育的な目的があって」のことで、人間が怒るのは、「相手によって不利益が及んだ」からである。
例えば、小さいころ、買ってもらったおもちゃを壊してしまったときに、どのように叱られた、あるいは怒られただろう。
ケース①
「乱暴に扱ったから壊れたんだよ。そうやって乱暴に扱うならもう買ってあげないよ」
→これは叱られている。何故なら、壊れた原因をしっかりと示してくれているからだ。これなら、乱暴に扱うという行為を叱っているのである。
ケース②
「あんた何やってんの! また壊して!もう買ってあげない!」
→これは怒られている。親のお金を無駄にしているわけだから、親からしたらたまったものではないのだ。
ケース①の方、つまり「叱られる」ということは、その行為を続けた場合に、君によくない影響がある、ということだ。
つまるところ、今後の君に悪影響がないようにしようしているわけだ。
対してケース②の方は、君に反省を促そうという教育的な目的ではなく、君がやった行為に対してむかついているのだ。
ここに教育的な目的は一切ない。
だが忘れてはいけないのは、大人(当然君の親)も、人間だということ。
「感情」というものがある。
理不尽に不利益を被ったら、そりゃキレたくもなる。
そしてケース①とケース②のようにどっちかに振り切ったセリフを言える人は少ない。
大抵の場合は、ケース①と②が混ざったような、つまり「叱る」でもあり「怒る」でもあるような言葉を使ってしまう。
だから、半分嘘で半分本音だと言ったのだ。
問題はそれの良し悪しではない。
その「叱る」とか「怒る」という行為の中に、「暴言」を混ぜている人はいないかどうか。
僕は、これに注目したい。
「叱られる」のも「怒られる」のも、良い気持ちではない。
しかし、これを禁止にするのは絶対に間違えているし、不可能であるとさえ思う。
ただ、「暴言」は違う。
君を傷つける言葉が吐かれるのは絶対に間違えている。
それに君が知らずに落ち込んでしまうのは、間違えているのである。
◆暴言は君のためにならない。
上記の通り、人は人である以上、感情を無くすことはできない。
感情的になることは、誰にだってある。
だからつい出てしまった「暴言」を揚げ足を取るように、追及したいわけではない。
だが、世の中の人には「暴言」を日常的に「教育目的だと思い込んで」使っている人間もいる。
全てではないが、少なからずいる。
そういう人は「これは躾だ」なんてもっともらしいことを言う。
はっきり言うと、暴言は人のためにならない。
傷つくだけで、何の意味もない。
だってそうだ。
暴言を言われて成長など出来るはずがないのだ。
計算問題が出来なくて、「なぜできないんだ馬鹿」と言われたところで、計算ができるようになるのか。
「悔しいと思わせて勉強させるんだ」なんて思うかもしれないけれど、正しいやり方を教えずに出来るようになるわけがないのだ。
だから、暴言で押し付けようとする人がいたら、距離を取った方がいい。
それが難しいなら、だれかに相談しよう。
傷ついて、自分の良さを見失ってしまったら、それはとても悲しいことだ。
もし、いつも暴言を吐いている人が周りにいるなら気を付けてほしい。
もし、それが大人でなく、君の友達だったなら、今のうちに止めてあげてほしい。
そして、もし、それが君自身だったなら。
絶対に治した方がいい。
大人になったら、もう手遅れだ。
治しようがない。
治しようがなくなった大人なんて、この世にはたくさんいる。
その一人にならないように、心から気を付けてほしい。