こんばんは、Wam六十谷校の川口です。
強度と持続という概念で”自由”を捉えなおしたアンリ・ベルクソンの「時間と自由」を読みました。訳者が副題の「意識に与えられたものについての試論」に固執した理由はベルクソンの特異な議論構造にあります。一章では強度を二章では持続を、自由のための導入として述べ、自由に対しての争いを俯瞰する観察役として位置する著者は自由をどう捉えるのかが曖昧なまま進みます。
カント以降、心理学では自分自身の組成から借り受けられた形式を介して事物を覚知するという点を確証することに専心しており、意識と外的知覚を分離していましたが、経験学派は空間を持続で、外部性を内的諸状態で再構成しようと努めています。物理学でも現象を予見するために、現象が意識に及ぼす印象を一掃しなければならず、感覚を実在そのものとしてではなく、実在の象徴として扱わなければならず、心理学の仕事を補完する形になっています。
この著作の主要な目的として、持続ならびに意志的決定の観念の分析が挙げられます。内的持続の諸瞬間は互いに外在的ではなく、外部には同時性だけが存在します。わたしたちは意識のうちに、区別されることなく相継起する諸状態を見出し、空間には継起することなく諸々の同時性が見出されます。ただ、わたしたちはこの区別を超えて事物を持続するものとして、時間を空間のうちに置こうと考えてしまいます。これにより、自由は否定に至ってしまいます。
いかなる仕方で自由を考察するにしても、時間と空間を同一視する条件でしか自由は否定されず、時間の十全な表象を空間に求める条件でしか自由は定義されません。継起と同時性を混同する条件でしか自由について議論できず、どんな定義も決定論に道理を与えてしまいます。しかし、我々は外的事物の相互外在性を得させる錯誤を維持することで、意識状態を客観化し、社会的生の流れに参入することができています。
結論としてベルクソン自身が述べる自由としては、
”この内的状態の外的顕現こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう。というにも、自我のみがその作者であったろうし、また、この顕現は自我全体を表現するであろうからだ。
要するに、われわれが自由であるのは、われわれの行為がみずからの人格の全体から発出し、これらの行為が人格の全体を表現する場合、である。
実を言えば、われわれの魂の深層の諸状態、数々の自由な行為によって翻訳される諸状態は、われわれの過去の経歴の総体を表現し、要約している。”
と述べています。
この反復される彼の自由についての表現モデルについての考察は難しいですが、自我の全体、人格の全体に包括されます。われわれの日常を満たす数々の行動は、その大半が私の意識全体を揺さぶるには至らず、局所的過程が遂行されるに任せてしまい、意識ある自動機械と形容される日常において魂が機能していないと語っています。人格が関与せずとも、印象に後続して生じるという意味で、反射行為に類似した意識的かつ知性的な振る舞いとして表層となり処理されています。
重大な局面において、ひとが、彼の「最も内密な感情や思考や希求の総体」に訴えつつも、悩み、熟慮し、その自然な発露として、ある行為を結実させたとき、したがって、その行為そのものに彼の人格、彼の性格、彼なりの生き方が申し分なく反映していると言えるとき、そのとき、その行為を、あるいはその行為を遂行しつつある当人を自由という名で呼んでもいいのではないか、というベルクソンの自由という語の新しい提唱には奥ゆかしさを感じます。つまり、拘束からの解放や行動に際しての選択肢の豊富さなどの条件とは無縁の無差別的自由は動機なしに選択できると述べています。しかし、ベルクソンが無根拠に恣意的な選択を自由だと称揚しているのは誤読であり、一見無差別的に見える選択が何らかの決定動機に結びついていることも示しています。
著作中では自由を定義する人物と否定する人物を登場させ、決定論に対して分析しています。われわれが、未来の行為の予見を、自由を脅かすものと感じるとすれば、暗黙のうちにこうした予見のモデルとなっているのは、おそらくは、ある一般的な法則が特殊事例に適用される場面で、条件の認識の方にベルクソンも焦点を当てています。たとえ初期条件についての知識を得ても、後続する帰結についての一般法則の存在が危惧され、経験的な方法や先行条件の多岐で予見の意味を奪うことになります。そのため、掘り下げられた反省によって自己を捉え直し、多様性を把握することで、我々には稀にですが自由があります。自由はいかなる行為かというよりも、自己をいかに認識するかにかかっています。それでも、「われわれの自由な活動の過程が、いわばわれわれの知らない間に、意識の暗い深みでは持続の全瞬間にわたって継続されている」と自我の持続の存在論が、自由を獲得する認識論的努力に先行する余地を残しています。自由はすでに人格にあり、外的な事情や、欠けている能力や資質にこれを探しても無駄であり、逆に損なわれるものでもあり、積極的に表現してこそ自由であると訴えています。自由について書かれたものは些末な問題に向かう傾向があり、本書がこれに真っ向から挑み、優れた自由がそこにあると教えてくれているのだと思います。