こんばんは、Wam六十谷校の川口です。
読むことと書くことは全く別のことだと言われます。書くことで表せる形についてロラン・バルトの視点から文学をみていきたいと思います。
同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体》(ラング)は文学の手前にあり、著作家の経験に関する偏差《文体》(ステイル)はほぼ彼方にあると述べられています。ラングと別に《語り》(パロール)は言語の代行ですが、速さでなく濃密さに個人の気質が表れるステイルは生物学的な起源によって、社会の契約の外に位置します。ステイルがない職人的な古典的エートスを開発したとしてバルトはジッドやヴァレリーを挙げています。小説に限らず、詩についてもユゴーやシャールはステイルにあふれており、言語と肉体的な分身との自由な絆を作っています。これらあらゆる文学の形式上の現実として、エートスの選択があり、アンガジェ(社会への参与)することで作品の機能として他人の歴史へ結び付けられるという連帯性の行為がエクリチュールであるとしています。言語活動の第三の層とも言われているこのエクリチュールはパロールの対で、書く(ecrire)の名詞でその行為自体を指します。古典的、政治的エクリチュールなどに拘束される文学が多いですが、小説においては歴史的な時点の選択として表現されます。文法としてもフランス語の直説法単純過去と接続法半過去などはパロールとしては消えましたが、物語としては芸術の標示として文芸の儀典をなしています。連鎖的な事象をまとめる構築の道具として単純過去形は代数学的な安定性を持ちます。ただ、信用できる連続体の設定とともに錯覚が公然と示されるため、形式的な弁証法の最終項であるともしているので、二重の客体の両義性を残すことで西欧の恒常的な操作と普遍の芽に可能性を感じさせてくれます。贋物は真実に等しいのが小説的なエクリチュールで、どの世界の文学にも同じ傾向が見られるように感じます。
詩や散文を読んだときに、修辞学的な文彩や文句は述話の連動的な状態を利する形で濃密さを喪失しており、化学上の原子価のように均斉的な言葉の領域を描き出し、表意作用のさまざまな意図が出現します。現代の詩は言語の機能的な性質を破壊し、用語的な基盤だけを存続させ、文法は目的性を除去され、韻律法となりますが、廃棄ではなく保持された場所であり、見せ掛けの諸関連として虚無が必要だとしています。
極性の二つの項(単数-複数、過去-現在)の間に第三の項(中性項)の存在を立て、接続法と命令法との間において、非叙法的な形式が現れます。この直接法的なエクリチュールを零度のエクリチュールとバルトは表現しています。イデオロギーに奉仕せず、あらゆる依拠を進んで喪失した沈黙の仕方としてカミュを挙げており、「異邦人」のシンプルさを言い得ているように感じます。また、バルトはフローベールやプルーストを偏愛しており、サルトルの影響下にもありました。ボードレールやバタイユを持ち出すまでもなく、文学の本質は<悪>に認められるのであり(人間的善悪の領域ではなく)、サルトルの「文学とは何か」での「<悪>とは世界と人間を<思考>に還元することの不可能性だ」と彼の意図的で作為的な戦略により、バルトのエクリチュールの零度は書かれたのだと考えるとおもしろいものがあります。サルトルのような説話的な形などエクリチュールの多数化は言語のユートピアとなり、エクリチュールを産出するテクストとして、以降のテクストの快楽などバルトが語る読書の詩学へと繋がっていきます。
批評はあまり好きではないですが、バルトの定義を行わず、芸術と同じく全てを理解することを是とするのではない、文学の楽しみ方を感じられた時間でした。