みなさんこんにちは!
Wam木太校です。
学年によってはテストも近づいてきて、木太校の生徒たちも熱心に授業を受けてくれています。
私は、塾の世界で15年以上勤めて来てその経験からひとつ確信していることがあります。それは生徒の成績を上げる、入試に合格させることは簡単とは言わないまでも、そんなに難しいことではないということです。
たったひとつの原則を私達、民間の教育者が守れば良いのです。
その原則とは“生徒を信じる”ことです。
教える側、つまり講師が生徒の能力、すなわち才能をまず信じているということが教育活動の絶対的な前提であり、その前提があって始めて諸々の創意工夫や授業法やひとりひとりに合った教材、動機づけがあってこそ初めて集団授業にない個別指導が活きてくるのです。
私が生徒の能力を信じるというのには、根拠が2つあります。
お子様は自分の能力のほんのわずかしか使っていないのに、残念ながら「自分には才能がない。どうせダメだ」と取り組む前からあきらめる傾向があります。
そのためには子供たちのサポーターである私達や保護者様が、まず、子供達の能力を実際より低く見積もる習慣を「解除」すること。
その思いこみを解いて「自分にもできるかも知れない」と思わせることです。
その前提として子供達の能力を信じることが必要になります。
ところが残念なことに、集団授業や学校では教える側の先生自体が生徒の能力をそれほど信じていないことも多く、信じていないからこそ生徒が能力を発揮し切れていないのだということも認識していない。
つまり悪循環におちいっていることがよくあります。
学校の教師は生徒をどこまで信じ切れるのか?
この問題には実はかなり根深い、一筋縄では解決できない原因があると思っています。
その1つは教師の心理的問題です。 たとえば学校などでも、熱心という評判の先生はたくさんいます。
しかし熱心イコール生徒を伸ばす先生とは限らないのです。
ここに「熱心な2人の先生」がいるとします。 1人は、生徒の能力を心から信じ熱心に指導する先生。
もう1人は「生徒は世話の焼ける存在」であり「出来ない子ほど細かく見てあげないとダメだ」と感じて熱心に指導する先生。 どちらが生徒を伸ばす先生でしょうか?
私の経験では前者の「生徒の能力を信じている」先生のほうが生徒を伸ばすといえます。
後者は生徒本人や親から感謝されることはあっても必ずしも学力向上という点では、大きなパフォーマンスを上げるとは限らない。
なぜなら後者のタイプの先生は、基本的に生徒の能力を信じていないからその「不信感」が生徒の心理に微妙に反映されているからです。
「ただ信じるだけ?」
「そんな単純なことで伸びるなら苦労しない!」
そんな声が聞こえて来そうです。
ひとつ誤解のないように言いますが、生徒の能力を信じるというのは生徒を甘やかすとか、現状のまま放置するということではありません。
それどころか、Wamの場合でいうと個別の強みを生かして時には厳しく生徒を指導することになります。
なぜかと言えば生徒の能力を信じているからです。
前提に「生徒に対する愛情と信頼」があれば必ず伝わり、それはこちらへの「信頼」となって返ってきます。
その信頼関係が生徒の学力や行動に対する「動機付け」につながります。
とても言いにくいことですが、生徒を伸ばし切れない先生の中には「手取り足取り熱心に教える」ことによって自己満足に浸っている人も多いのです。
その自己満足と引き換えに本来もっと伸びるはずの生徒が可能性を閉ざされているのも事実です。
それは結局のところ、生徒を信じていないか自分が生徒に依存されることを望んでいるかそのどちらかであるのです。
熱心な先生という響きは心地よいものですが、その言葉に酔って教師本来の役割を忘れてないか。私も含め、人を教える立場の者は常に我が身を振り返る必要があると思っています。
木太校に通う生徒一人ひとりの表面に現れている姿だけを見るのではなく隠れた能力を見抜き、その潜在能力が発揮された姿をイメージしてそのレベルまで引き上げることにこそ情熱を注いでいこうと考えています。
学校の授業が40日前後停止する夏を、「差がつく夏、差を埋める夏」に出来るかは今のやる気次第です。
部活動やスポ少など、勉強以外のやるべきことも多いし、家に帰ればオンラインゲームなど楽しいことが多い時代でもあります。
しかし今の努力が人生の選択肢の幅を確実に広げてくれます。自分のチカラを信じて学習に励みましょう!