あっという間だっだけど、あまりに濃くて激しくて。そんな4年の月日を引っさげて、庄内校はもうすぐ開校5年目に突入します。
当時まだ22歳だった僕も、そんなこんなで27歳。そろそろ人生というか、キャリアに勝負をかけに行く時期じゃないかって、そんな気がしています。だってもう若くないもの。ワールドカップとか見てるともうね、27歳なんて油のった選手の年ですよ。
だからまぁ、そろそろ勝負を賭けに行くんです。目指せレアルマドリ-、みたいなとこあるじゃないですか、27歳って(しつこい)。
だから今日は、僕がこの4年間で学んだ一番大切なことについて記しておきたいと思います。
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僕がこの4年間で皆さんから学んだことを、まさに完ぺきに言い表してくれている言葉があります。
“The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.”
「凡庸な教師はただしゃべる。
よい教師は説明する。
すぐれた教師は自らやってみせる。
そして、偉大な教師は心に火をつける」
William Arthur Wardという方の言葉だそうです。
「いやこんなのどっかで聞いたことあるようなあるあるの名言じゃないか」ってお思いになるかもしれませんね。でもこれって教育の本質を見事に突いた誠に奥の深い至言なんですよ。
有難くもこの4年間、たくさんの生徒や講師たちと楽しくも大変な毎日を過ごしてきたわけですけど、僕はそこで「教育人としてキャリアを積んでいくにあたって最も大切なこと」を学ぶことができました。
それは、教育で最も大切なのは「教えること」ではなく「学ばせること」だということです。
日本語にするとなんか微妙なんですけどね。”Let them learn”のほうがしっくりきます、意味は一緒ですけども。
もっと具体的に言えば、教育者は「何をどう教えるか」という視点から可能な限り早く脱却し、代わりに「何をどう『学ばせる』か」という視座を手に入れなければならない、ということです。
いやね、言葉遊びじゃないんですよこれは。そう思われるかもしれないですけど。でも、「教える」と「学ばせる」の間にはそれほど大きな違いがある。
というのも、「教える」という視点で展開される授業は「教師主導で展開される」ことになりますよね、当たり前ですけど。これを図に表すと下のようになります。
※1
注目すべきは、「目標」を筆頭とした個々の授業構成要素が全て「教える側目線」だという点です。まず「教育目標」を立て、その達成に向け「教える内容」を決め、「教える環境」を整え、「教える道具」を用意し、そして「教えた成果を測定するため」にテストする。
従来はこうした授業展開が長らく採用されてきました。講義型の授業がその典型例にあたります。教えることをベースにするメリットは確かにあって、例えば講義型の授業なら一度で多くの生徒を指導することができますから、なんてったって効率がいい。それに授業が教師主導で行われますから、教える側からすれば授業の設計や進行が容易なんです。環境や教具は「教える側」がやりやすいように整え準備すればよいし、授業を済ませれば一応は教えたことになりますから、予定通りに授業が終わればそれで教育目標を達成できたことになります。
それでうまくいっていた時代があったのは事実です。ところが色んな理由があって(長くなるので割愛しますね)、そうはいかない時代になった。つまり、教師が「教えた」はずなのに児童生徒が「学べていない」という事態が続出するようになった。
その全てを「教えること」中心の授業のせいにするつもりは毛頭ありません。ただ僕は、そこに「教える側に立つ者」の傲りがあったことは確固たる事実だと思う。僕らは「教えること」に熱中しすぎて、児童生徒が「学ぶこと」について十分に考えられていなかった。ともすれば「こっちはちゃんと教えたよ、学んでないやつが悪いのさ」と言い切った。
僕はこれが教えること中心の授業が齎す最大のデメリットだと思います。教えることに熱中する指導者は、学習不足の責任を学習者に押し付ける。「教えたことを聞いてないのが悪い」、「ちゃんと宿題をやっていないのが悪い」などなど(いやまぁ悪いんですけどね)。
それに加え、教える側からすれば授業が予定通りに進行したかどうかが大きな関心事になってしまいますから、最も評価される生徒の行動は「静かに授業を聞いている」といったような「授業の進行の妨げにならない」類の行動ということになります。でもそれって「生徒が何を学んだのか」という実質的な教育成果に基づく評価では当然なくて、むしろ「円滑な授業の進行に貢献したか」という非常に一面的かつ形式的なものじゃないですか。しかもそういうのって学習者目線から見るとどうしても「贔屓」にしか見えない。
でもね、「教えること」中心の授業にはこうしたことが起こりがちなんですよ。学習者の態度や授業姿勢を過度に指導しようとしてしまうとか、高圧的にコントロールしようとしてしまうとか、そういうことが。だって「自分の説明」が授業の中心じゃないですか。だから、それを生徒が「しっかり聞いているかどうか」が凄く気になっちゃって、やたらと過敏に反応しちゃうんですよね。
実は、これは過去の僕に向けて放つ自戒の言葉でもあるんです。
僕が庄内校の教室長になって2年ほど経った頃のことです。教えることにも慣れ、自分の授業スキルに自信を持つようになった、そんな時期ですよ。ある日ぼくは、受験生に向けた「完璧な」授業案を思いつきました。今でもそう思ってます。アイディアがずば抜けて良くて(いやほんとに)。いやもう、絶対に成績が上がる授業でした。板書計画も発話計画も入念に準備して、そのためのプリントやノートも作成して。
ところが実際の授業で何が起きたかというとね。まず時間通りに来ないとか急に休むとか、そこからですよ(笑)。あと板書した字を、歴史だったんですけど、全部ひらがなで書くとか。もうね、発狂ものでしたよ当時は。
確かにそれは一部の極端な例かもしれないですけど、じゃあ他の子たちは問題なかったかと言えばそうではなくて、彼らは彼らで壁にぶち当たったんですね。例えば、こっちの説明は熱心に聞いてくれるし様子見る限りはふんふんと頷いてくれているんだけどもいざ問題を解かせるともう全く解けないとか、まさに「そこ一番力こめてゆうたやん!」ってところを覚えてないとか。
今思えばこれって当たり前というか、別におかしなことではないんです。
だって、「人の話を集中して聞けたり理解できたりする力」と「知識を覚えたり自分で考えたりする力」は全くもってイコールではないから。別物なんですよ、完全に。
で、僕ら学習塾にとっての命題は「ペーパーテストでのパフォーマンスをいかに向上させるか」じゃないですか。じゃあやっぱり大事なのって、知識を覚えたり自分で問題を解いたりする力なんですよ。要は、いかに「出力」できるようになるか。だって、「自分の力」で何ができるかの勝負じゃないですか、ペーパーテストってのは。人の話を静かに聞けるかとか、説明を聞いてその場で「あーなるほど」ってなれるかとか、そういうのは別に勝負には関係ない。
もちろん、大事じゃないとは言わないですよ。そういうステップを踏むことは凄く大切だと思います。でも、それだけで紙上のパフォーマンスが向上することは絶対にない。ペーパーテストで結果を出すには、「知識を(なるべく整理して)覚えること」と、それを聞かれたことに応じてできれば論理的に、難しければ感覚的にでもいいから「出力できるようになること」が絶対に必要なんです。
じゃあそのためにはどうすればいいか。
それはやっぱり、普段から出力の経験を積んでおくしかないんです。
まず出力には入力が必要なので、最低限の知識やルールを覚える必要がある。でも、それも可能な限りは出力を利用するのが好ましい。インプット(入力)のためのアウトプット(出力)です。
僕はよくこんな例え話をするんです。「自転車の乗り方を誰かから教わっただけで、君は自転車に乗れるようになりましたか」って。あるいは、泳ぎ方の説明を聞いただけで泳げるようになりましたかと。
ならないじゃないですか。あれってね、もちろんインストラクションは大切なんですけど、とどのつまりは実際に「自転車に乗る」とか「水の中に入って泳ぐ」という活動を経験しないと習得できないものなんですよ。
僕たちは自転車の乗り方や泳ぎ方を習得しようとしたとき、「乗れないのに乗る」とか「泳げないのに泳ぐ」という何とも矛盾した経験を繰り返すことで、「いつの間にかその方法を習得していた」という誠に不思議な営みを経験しました。この生成的なプロセスこそが「学び」の本質なのです。
ですから、最初のインストラクションで必要なのは安全面の注意事項や最低限の知識(止まりたいときはこのブレーキってのを握るんだよとか)ぐらいで、そのあと大部分を占めるべきなのは実践なんです。
ところが勉強になった途端なぜか皆さん、そこには「勉強の仕方」なるものがあってそれを習得できれば勉強ができるようになる、とか、「わかる」と「わからない」の間にはハッキリとした境界線があって、ある一定量の学習を積めば「わからない」が鮮やかに「わかる」に変化する、などという機械的なイメージを持たれてしまう。
でもね、勉強だって自転車や泳ぎと同じで、わからないながらもやってみるしかないんです。頭で理解すればおいそれとできるようになるわけじゃないし、そもそも頭で理解できるようになるには相当の訓練を積まなきゃいけない。だからこそ、教える側は「自転車の乗り方を教えること」よりも「児童生徒が自転車に乗ること」を優先しなければならないのです。もう少し教育っぽく言い換えるなら「学習活動」を充実させなければいけないわけです。
そこで改めて「教えること中心」の授業展開を考えてみると、どうしても授業の大半が教える側からの「説明」や「実演」になってしまう。もちろんこれらは授業の大切な構成要素なのですが、教師が「説明」している間、学習者はどのような行動を強いられることになるでしょうか。
学習心理学者のロバート・ガニェが示した「9段階教授法」に学習者の学習法を対比させてみましょう。
※2
指導者の行動と学習者の行動には当然ながら対応関係がありますが、教える側からみた行動(教授法)を学習者視点でとらえなおした場合、学習者にとって受け身な行動となってしまっているケースが多いことがわかります。
指導者が「説明する」という教授法を採った場合、対応する学習法は「説明を聞く」ですね。もちろん「説明」は学習にとって必要不可欠な行動であるのは確かですが、授業の大半で「説明を聞く」ことを強いられてしまった場合に予想される弊害については、既にご案内した通りです。
教育現場はこうした従来的な授業展開や構成を反省し、もっと学習者を中心にした授業を実現しようと努力しています。学習者が「学ぶこと」を中心とした授業を図に表すと、このようになります。
※3
注目すべきは、掲げられているのが「教育目標」ではなく「学習目標」になっていることです。「何を教えるのか」ではなく「何を学ぶのか」。それがどうしたと思われるかもしれないんですけど、これは授業の概念にコペルニクス的転回を与える画期的な発想なんです。というのも、たったこれだけで授業の中心が「教える行為」から「学ぶ活動」になるんです。でも当たり前ですよね。学ぶ目標を立てたんですから、その実現には学習活動の展開が必須になる。
そうなると整えるべき環境や用意すべき用具は学習者目線で考慮されることになるし、学習の成果はペーパーテストだけでは測れませんから(学習活動そのものを評価しないといけませんので)、ポートフォリオやルーブリックを取り入れたパフォーマンス評価(まぁそういうのがあるんです)といった、多様な評価方法を用いる必要が出てくる。
そうはいっても、学習者中心の授業が万能なわけではありません。実施に向けては物質的な限界がありますし(予算とか時間とか)、多様な学習者の多様な行動を予測しかつ柔軟に対応する能力が求められますので、教える側の負担が大きくなります。とどのつまりは「教える」という行動を授業から取り除くわけにもいきませんし、特に学校は大人数への集団授業が基本となりますから、授業を学習者中心に寄せるといっても限界があります。むしろ「学ぶこと」中心の授業展開を従来の指導者中心の授業にうまく融合させようというのが、現代教育の基本的なスタンスと言えるでしょう。図に表すとこうなります。
※4
ところがですよ。塾というのは、というか個別指導というのは、授業の大部分を「学習活動」で充実させることが可能な画期的な指導形態なんです。僕は4年目の途中でようやくそれに気づきました。いや、遅いじゃないかってツッコミはあると思うんですけど、違うんです聞いてください。
そりゃあね、理論としては知ってましたよ。だって僕がここで申し上げていることは別に新説でも画期的な学習論でも何でもなくて、例えば現役の教師さんやこれから教師になろうとしている人は当たり前に知っている話です。だからこそ過去十数年の間に個別指導が学習塾の主流になってきたわけです。学校の授業だけでは学習活動(特に「問題演習」)が十分でないから。
僕が言いたいのは、僕らにとって一番大切なのは「教える」ことではなくて「学ばせる」ことだという事実を骨の髄まで実感するのに3年以上かかった、ということなんです。そしてそれを教えてくれたのはやっぱり子どもたちでした。
この前の3月に送り出した受験生の中には、小学6年生のときから見てきたっていう生徒が結構いたんですね。で、この子たちは僕たちの教室史上で一番結果を出すことができた代なんですけど、その中でも特に、数字的にも感覚的にも学習成果が出たなぁと感じた生徒というのが、実は僕が最も放任したタイプの子たちだったんです。
いやまぁ、放任したというとちょっとあれなんですけど、ようは細かいことを言わなかったというか、本人の意志や希望を尊重して、僕らはそれを支援しただけというか。
先ほど申し上げたように、僕はかつて「教えること」を中心に教室を運営していたことがありました。その時は「教えること」に躍起になっていたので、やっぱりこう、どこか驕っていたというか、威圧的だったというか。「きっちり教えた通りにやれば必ずできるはずだ」っていう確信が強すぎて、子どもたちにすごく厳しく接してしまっていたんです。そのせいで衝突してしまった家庭もあったし、結果として後味が悪い感じでやめてしまった子もいて。それは今でも本当に申し訳なく思ってます。
で、あの子たちの代もそれを経験しているわけですよ。小6からいましたから。実際、衝突したこともあった。「こういう勉強をしたい」とか「こうやって勉強したい」なんて要望があっても僕は凄く頑なで、「いやこれをしろ」とか「そんなのだめだ、こうやってしろ」的な感じで突っぱねたり。
でもまぁその前までの代での経験なんかを経て、3年目の途中ぐらいから少しずつ考えを改めだしたんですね。もちろん指導側として最低限の要求や基本の計画はあるんですけど、それを守ってくれる分にはあとは細かいことは言わなくなった。講師から相談を受けることもありましたが、「あの子は自分で意志を持って取り組んでるから、それを尊重しよう」と伝えました。結果として、そういうタイプの子たちが一番伸びたんです。
もちろん、彼女たちが主体的かつ積極的に学習に取り組める子たちだったというのが、結果に繋がった一番大きな理由です。だけど僕は彼女たちに教えてもらってようやく骨身に沁みるほど理解できたんです。本当に大切なのは「僕らが何を教えたか」じゃない、「彼ら彼女らが何を学んだか」だと。
このエピソードだけだと「なんだ結局は子ども次第ってことじゃないか」と思われるかもしれないですね。でも僕たちの最終的な目標は仰る通りそこなんですよ。今は僕たち大人次第かもしれない。僕らの干渉が必要かもしれない。でもいつかそんな子供たちを、主体的な学習ができる「大人」へと成長させてあげたい。立派に飛び立っていったあの子たちのように。
だからいま僕たちは、可能な限り授業を児童生徒の学習活動中心のものにしようと試みています。「説明を聞く」という受動的な時間を極力減らし、インプットのためのアウトプット活動を充実させる。別にファンシーなことをしているわけではありません。なるべく問題演習の時間を充実させるとか、学習内容を周回して習熟度を高めるとか、単語1つ覚えるのにも時間を計って集中力に負荷をかけるとか、スペリングに問題がある生徒なら10回必ず書かせるとか、延いてはボーっとする時間を減らすとかダラダラ問題に取り組む時間をなくすとか、そういう当たり前のことをしっかりやろうじゃないかという、ただそれだけの話です。
ええそうです、当たり前ですよ。でも皆さんや皆さんのお子さん、そういうのしっかりできてます?微妙じゃないですか?ちゃんと時間を意識した勉強できてます?教科書眺めたりノートにまとめたりしただけで覚えた気になってません?字は丁寧に書けてますか?自分の力で問題解いてます?
こういう当たり前のことをしっかり支援してあげる、それが一番大切なんですよ。わからないことを説明するだけじゃ全然足りないんです。そこを勘違いしている人はこの業界にも学校にも残念ながら非常に多い。過去の僕も含めて。
教えただけじゃ「学んだこと」にはならないんですよ。説明を聞かせるだけの授業は僕らの自己満なんです。そうじゃなくて、何をどう「学ばせるか」なんですよ。そのために何ができるかなんですよ、僕たち指導者が考えないといけないのは。
例えば、ペースメーカーになってあげることって凄く大切で、学習中は子どもに時間を意識させることが重要なんですけど(速く正確に解けないと意味ないですから)、かと言って突っ走らせすぎると子どもはバテちゃうし、機械的すぎると引いちゃいますよね。だから会話を挟んだりして休憩させてあげる時間も絶対必要なんですけど、でもずっとそんな感じでダラダラ授業を進めてしまったら「おいおいこの子は今日何を学んだんだ」ってことになってくる。それって教える人間失格ですよね。
じゃあ何が正解なのかって言ったらそんなの単純明快で、「目の前の子どもを見て何がベストか考える」ですよ。「そんなの『正解はない』ってことじゃないか」って仰るかもしれないですけど、でも「何をどう教えるか」じゃなくて「何をどう学ばせられるか」という視点で子どもと接すれば、必ず色んな工夫が思い浮かぶはずなんです。この子は突き放すと何もしないから時間測って具体的に指示出してあげないとだめだなとか、この子は軽いノリで煽りながら誘導してあげたら結構ついてくるなとか。そうやって最適解を見つけ出すことはできるはずで。
幸運にも、僕らは「学習内容」や「学習目標」について考える必要がありません。学習内容は「試験内容」だし、目標は「紙上のパフォーマンスを向上すること」だから。たとえ小学生低学年だって一緒ですよ。中学での定期試験や高校入試を起点に逆算で学習目標を算段するんです。
この点は塾として絶対にぶれちゃいけないし、絶対にこだわらないといけない。教える側はその時々の学習すべき内容(試験内容)を絶対に把握してないといけないし、紙上のパフォーマンスを上げるためにはどんな指導が求められるかという点は常に考えていかないといけない。
だから導くべき方向はちゃんとあるんです。僕らは子どもたちがそこに向かって歩めるようにサポートしてあげないといけない。これがない「学習者中心の授業」なんて、ただ学習者に全部丸投げしてるだけですからね。宛もなく彷徨うだけの背中を押したって、それこそまさに糠に釘、暖簾に腕押しですよ。それを教育と呼ぶのはあまりにも烏滸がましい。
そうじゃなくて。ただ彼らを気ままに歩かせるのでも、ただ後ろから鞭をうつのでもなくて、僕らはまず彼らに歩むべき道を示すんです。そのうえで、あとは彼らに歩かせる。ずっと前を歩くわけでも、ひたすら肩を貸すわけでもなく、その時々に必要なサポートをしてあげながら。場合によっては歩き方を教えてあげる必要があるでしょう。でもいくら歩き方を教えたって、そこで歩いてるのは教えてるやつだけなんです。それで「教えた」ことにはなるでしょう。でも彼らが何かを「学ぶ」には、彼らが自分の足で歩く必要があるのです。
ここで話をグイっと戻しますと。
なぜあれが教育の本質を突く名言なのかという話でした。え、なに?忘れた?それはまぁ僕の責任でもあるので、再掲しますね。
“The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.”
「凡庸な教師はただしゃべる。
よい教師は説明する。
すぐれた教師は自らやってみせる。
そして、偉大な教師は心に火をつける」
もうわかるでしょ?
凡庸な先生も良い先生も優れた先生も、みんな「教えてるだけ」なんです。話すのか説明するのか実演するのか、その様態は違えど、彼らは結局「教える側」から「教えられる側」への一方的な働きかけしかできずにいる。「教える」という視座に固執して、そこから離れることができずにいる。
でも偉大な先生だけは、学ぶ人間の存在を前提にしているんです。偉大な先生だけが相手を必要としている。しゃべるのも説明するのも実演するのも、別に相手がいなくてもできてしまいますよね。でも”inspire”は相手がいないと絶対に成り立たない行為です。それはつまり、偉大な先生だけが「教育は教える側と学ぶ側との相互的かつ生成的な営み」であることを熟知している唯一の先生だということです。
僕はたぶん、まだ「すぐれた教師」程度だと思うんです。偉大な先生になるために必要なことはわかったけれど、どうやってそこに辿り着けるかはわからない。だってほら、優れた先生までは「説明する」とか「自らやって見せる」程度のことですけど、偉大な先生からいきなり「心に火をつける」ですからね。どういうことだよってなるじゃないですか(笑) どうやってだよみたいな(笑)
でも、この名言の最も深いところは実はそこだと思うんです。偉大な先生にだけは「どうやってなればいいのか」皆目見当がつかない。喋るのも説明するのも実演するのもイメージできるじゃないですか。想像がつく。でも「心に火をつける」ってのは。言ってることはわかるけど、具体的なイメージが全然湧かない。しかも段違いで難しい。
それはつまり、優れた先生と“the great teacher”との間には「それほどの乖離があるぞ」ってことだと思うんです。
「実演できるようになってもまだダメだ、偉大な教師になるには『教える』という視座から離れなくちゃ」
そこに気がつくことで、ようやく優れた先生は指導者として一人前になるわけです。しかしそこから「偉大な先生」の境地に達するには、更に何十年もの経験と幾千もの試行錯誤を積み重ねなければならない。
この言葉を残したウォードという人はきっと、そういう意味も込めていたんじゃないでしょうかね。
さてそんなわけでして、僕はこれから「偉大な教師」になるための修行に出ます。それがどんな修行になるかはわかりませんが、僕はその挑戦に全てを賭けて挑む覚悟ができています。
ですからどうか、応援していただけると幸いです。
上手くいった暁には、それこそできると思いますんで。
皆さんの心に火をつける、そんなお話も。
2018.8/4
塩崎 匡兵
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引用
篠原正典・宮寺晃夫(2012)、『新しい教育の方法と技術』、ミネルヴァ書房
※1 同96P
※2 同89P
※3 同98P
※4 同99P