こんばんは、Wam六十谷校の川口です。
2月に入りました。去年から読んでいた平安後期から鎌倉を生きた藤原定家の明月記は1180年の2月、治承四年から始まります。
礼式や典故、官職などに関する描写に熱心であり、手記であるので生活や愚痴などがほとんどですが、当事の宮中、貴族の実態を描写している貴重な資料です。しかし、晦渋な漢文で書かれているため通し読む人はほとんどおらず、しかし国文学など研究書には頻繁に引用されるので、そのために存在しているかのごとき異様さを持ちます。
定家は歌人としての潔癖さをもっており、遊興に耽る後鳥羽院に辟易しながらもその実力を認められて、新古今の撰者となるために苦労を重ねます。明月記私抄の著者、堀田氏も
「宮廷の遊びごと、競馬、鶏合、博打、双六、白拍子舞、乱舞、東遊び、などほとんどは社会の下層階級が創出したものである。逆に考えれば、社会の上層部に文化創造の力が無くなって来ている。和歌にまでそれが滲みていかない筈がない。歴史の一般的力学においては社会の上層部の下降志向は革命の前夜を意味した。後鳥羽院は宮廷最後の詩人である」
と当事の宮廷、院政の腐敗について書いています。後鳥羽院は毎日のように遊び呆けますが、その一方で新古今の選歌二千首をそらで詠むことができるほどに和歌への執念も持っていたようです。同時期の歌人である鴨長明との関わりについての記述もありますが、かの方丈記と同書は厳然たる差異をもっており、先が見えない不安な時代を両者がどのように生きたかを対称化できて、自分はどちらの生き方に近いのかと考えていました。
また、地学的な見地からも有名な記述があります。当事の公家と武家に対する社会不安は天機とかけて著されており、”秉燭以後、北并艮方有赤気、其根ハ如月出方”とあります。これはオーロラの赤い光だとされています。古くは日本書紀にも”十二月庚寅朔,天有赤気.長一丈餓.形似雑尾”と記されており、古書の自然現象の記述は日本や中国のように地磁気緯度の低い地域でのオーロラの観測を裏付ける重要な資料だとされています。
この平安時代後期はちょうど太陽極大期にあたり、黒点が増え、大規模な太陽フレアが発生したようです。太陽極大期の予想は難しく、今後どうなるかも不明ですが、地球の内部にある謎の電磁石により作られる地場は減少を続けており、これが続けば1000年後にはゼロになると計算されています。オーロラが毎晩のように見られるとなればそれは少し異様ですが、宇宙や太陽の存在の大きさを改めて知るのかもしれません。ちょうど中学3年生は天体を学んだ後なので先日の月食など、宇宙に向けての興味は深まることだと思います。