こんばんは、庄内校の塩崎です。
夏休みも中盤に差し掛かり、部活がひと段落ついたこともあって、いよいよ中3生も本格的な受験勉強にとりくみ始めました。生徒と共に中々多忙な毎日を過ごしていますが、今回は塾内配布の「Wamだより」8月号にて掲載予定も硬すぎてボツとなった内容をこちらに掲載いたします笑 それでは。
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法科大学院がたった十年余りで半減したとの記事が目に入った。政府は2002年、グローバル化や知的財産分野の拡大で弁護士が足りなくなると見込み、弁護士や裁判官といった法曹人口を大幅に増やす目標を閣議決定した。政府の支援もあり、大学は法科大学院を次々と新設したが、裁判所が受理した事件数は過去十年で四割減、とどのつまり政府の読みは外れたわけである。
受験者の減少傾向でいえば、税理士や会計士といった資格にもこの流れが見られる。これはなにも、法や簿記を勉強することあるいはその資格を持つことに一切の意義も認められない時代がやってきたということではない。そうではなく、役に立つかどうかという尺度は真に変幻的であり、故に頼りないという自明の真理が改めて証明されたということである。
今、医学部が大変人気である。日本は少子高齢化問題に直面しており、医療分野に学生が集まるのも自然な流れだと言えるだろう。しかし、医者の需要は今後むしろ減少していくのではないかという予測が、医学会では俄かにひそやかれているという。
曰く、多くの問診はいずれAIなどに取って代わられる。症状に沿った適切な診断を下すには、膨大なデータを蓄積したこれらの技術の方が信頼できるからである。また、問診やオペは腕の良い著名な医者に集中する傾向にあり、遠隔操作でのオペやビデオ通話での問診は既に行なわれているが、これらの技術は今後さらに発展していく。つまり、患者が増えるからといって、医師の必要数も同じように増加するとは限らないということである。
このような事例を我々は幾度となく目撃してきた。冷戦中、ソビエトが科学技術でアメリカを一歩リードしていた時期があった。その頃には、多くの理系生徒がロシア語を学習したという。冷戦が終結してからまだ三〇年も経っていない。造船や製鉄が日本の花形業界であった時期があった。そのころ最も人気があった理系学科は冶金学科だったという。わずか六〇年程前の話である。ご覧の通り、いわゆる「実学」と呼ばれるような「役に立つ勉強」の寿命は短いのだ。
「社会に出てから役に立つことを勉強する」のは大変現実的かつ計画的で、結構な心がけだと思う。とどのつまり、医者がこの世から駆逐されることはないだろうし、製鉄業は今なお存在している。
ただ、必ず勘定に入れておいてもらいたいことがある。それは、ある学問や技術が「役に立つ」と目されているかどうかは、その時々の社会情勢に大きく影響を受けるということであり、そして社会は「流動的かつ変質的」だということである。ひいては、役に立つかどうかという判断は、知識や技術のコンテンツあるいはその良否とは関係なく、その時勢における「需要と供給」のバランスによって下されるということである。
では何を学べばいいんだと仰るかもしれない。「何が役に立つかわからなければどうしよもないじゃないか」と。私が申し上げているのは、「勉強とは、そういう視座でしか物事を考えられないような人間にならない為の訓練なのです」ということである。
鶏鳴狗盗という言葉をご存知だろうか。「本質的に役に立たない知識や技術」などというものは存在しないという故事成語である。これは、ある能力や才能や知識がいつどのようにして役立つかは、「事後的にしか」感知されないという学びの本質を見事に表している。
小学低学年で学ぶ漢字や計算が大切であることには流石に満場一致でご同意いただけると思う。しかし、当の小学生はその大切さを理解することが出来ないし、当時の私たちにとっても困難だったはずである。英語を話せない人が「英語なんて使わない」といっても説得力がない。使わないというか、「使えない」のだから当たり前である。
このように、その学問が将来役に立つかどうかは事前に認知可能なものではない。それを判断する物差しは「あぁ、なるほどそういうことだったのか」という経験を経て事後的にしか得ることができないのだから。そして様々な対象に適した多様な尺度の「物差し」を各人の心に育成することが、教育の究極的目標なのである。
学問というのは役に立つ知識を学ぶことではない。ましてや資格や学歴を手に入れる為のものではない。
そうではなくて、学びをいかに役立たせるかの点において、我々は各人が唯一無二の個性を発揮することができるのであり、そのことに自覚する為の営みを総称して「学問」と呼ぶのである。
お役に立っただろうか。