教室ブログ

2017.06.02

草枕的教育論

「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

 

夏目漱石の名作『草枕』の幕開けを飾るあまりにも有名な一節である。ちなみに主人公の考えはこれで途絶えるわけではなく、この後も暫く続いていく。全てを引用したいぐらい美しい文章なのだが、長くなるので、最後の部分に留めることにする。

 

「――喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足たらぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……」

 

主人公の考えがここまで達したところで、ようやく物語は彼の思考世界から現実世界へと舞台をかえる。ちょうどいいので、僕も現実世界の話に移ろう。

 

この前、ある集まりに参加したときのことだった。講演者が「子どもの本分とは何か」と聴衆に問いかけたのだが、返答を求められた二人はいずれも「遊ぶこと」だと答えた。教育者の集まりだったので、講演者が期待していた答えはもちろん「勉強すること」だったわけだが、予期せぬ返答に話の腰を折られたわけである。

 

子どもの教育について語るとき、どうも人々はこの二つの命題を対立構造の中で解釈しがちであるように思う。「勉強ばかりさせるのは親のエゴだ」とか「子どもの好きに遊ばせるのは無責任だ」といった極論の対立を、私達は幾度となく目撃してきた。

 

実際にその場で論争が勃発したわけでも何でもないが、そのやりとりを目撃したときにふと頭に浮かんだのが、先の『草枕』の一節だった。別段理由はない。理由なく浮かんだのだから、どうして浮かべたと聞かれても答えようがない。

 

ただ、子どもの本分とやらについては、ちょっと考えてみたいと思う。

 

勉強は子どもにとって間違いなく大切なことである。本分というと、ただ、何か引っかかる。

 

勉強というのはそもそも、それが本人にとって有益であるとか必要不可欠であるから大切なのだというのではなく、勉強させないと困る人がいるからこそ大切でありえるのであって、それはつまり、教育というのは「社会」にとって必要不可欠な営みだということである。それこそが勉強が大切である根本理由だ。

 

人間は誰しも、社会で必要とされる知識や技術を持ち合わせず、善悪の判断基準を知らずにこの世に生まれる。然るにそのまま大人になられて困るわけであるが、ここで困るのは本人だろうか。本人も困るだろうが、一番困るのはその周りにいる他の人たちである。つまりは社会である。

 

善悪の判断がつかず、社会で必要とされる知識や技術を持たない人間は、その反対の人間よりも犯罪に手を染めやすいであろうことは想像に難くないだろう。犯罪者によって苦しめられるのは無論被害者であって加害者たる犯罪者自身ではない。そうして崩壊へと歩みを進めていくのは犯罪者自身ではない、社会である。

 

しかし彼らも社会で生きていることにはかわりない。社会があまりに無秩序化してしまえば、犯罪者だっていつその被害者になるかわからない。そんなところでは誰一人として安心して飯も食えまい。これがいわゆる、ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」状態である。社会の授業で学んだだろうか。

 

あまり踏み込みすぎるとまた長くなるので割愛する。何が言いたかったかというと、教育は子ども達を社会的に教化する役割を担っているということである。

 

結局のところ我々は社会の中で暮らしている。子ども達はまだ社会の成員ではないが、いずれ立派な社会成員としてその社会の担い手となるわけであって、そんな彼らが社会で必要とされている常識や一般的価値判断をまるっきり持たないまま大人になると、困る。とても困る。だから教育があり、勉強がある。本人が嫌がっても、仕方ない。社会の要請は本人の希望とは離れたところにあって、程度の差はあれ、それを完全に無視することはできないのだから。

 

しかし同時に我々は、そのような教育の強化的役割を過大評価する人間や、あるいは意図的・戦略的に使用する社会が存在してきたことを知っている。戦時中の大日本帝国下での国民学校教育はその典型だろうし、似たような教育の戦略的利用は人類史において別段稀なことではなかった。体罰や虐待もまた、この役割を過大評価する人間によって度々繰り返されてきたと言えるだろう。「指導のためだった」、「生徒(子ども)のことを思ってのことだった」という類の台詞が体罰教師から発せられるのを、僕らは奇妙な心持と共に何度も聞いてきた。

 

たかが勉強の話でなんと大げさな話をするんだと仰るかもしれない。だけれども、

 

生まれてきた子ども達はいわゆるタブラ・ラーサ(白紙状態)なのだから、彼らに社会が要請する知識や技術を教え込む必要があるという考えは、子どもの本性を悪とみなす性悪説に結びつきやすく、そのような観点で行なわれる教育は、子供達の悪性なる本性を根絶し、社会に求められる素養を代わりに植えつけることを目的とする。そうなると学校現場は全体主義へ傾倒するし、そこには生徒に対する管理体制が齎されることになる。

 

という程度の話は別に私のオリジナルでも個人的見解でもない。一般的な定説である(嘘だと思うなら調べてみればいい)。

 

実際にそれは、フェアな指摘だと思う。子ども達を社会化させることは確かに教育の大切な役割だとは思うが、あまりに露骨なのもいかがかと思う。社会は完璧ではないのだから、少なくとも「こんな社会でごめんな」と心の底で責任を感じているぐらいが教師のマインドとしては適切なような気がする(これは僕の個人的見解である)。それがベストだといっているのではない。ただ、「大人(教師)のいう事は絶対に正しいんだから、黙って従いなさい」というタイプの大人や教師が僕は嫌いだったので、そういう人よりはマシだと思っているのである。

 

それに、社会が子ども達に求める知識や能力は変動的である。例えば、今は英語が異論の余地なくリンガフランカ(世界共通語)として認知されており、文科省も巷も子どもの英会話能力の開発に躍起になっている。ただ残念ながら、他言語を理解しなくてもそれぞれの母国語だけで世界中の人と問題なく会話できる未来は、恐らく僕らが思っているよりもかなり近くまで迫っている。翻訳はAIにとって代わられるのが目に見えているのだから。

 

だから英語は勉強しなくていいという事を申し上げているのではない。そうではなくて、「社会の求める知識や能力を身につけることだけでは真の勉強とはいえない」という当たり前のことを再認識していただきたいのである。

 

いずれにしても、こうした性悪説から出発する教化的役割を過大視した権威的教育に、「もううんざりだ」と声をあげた人がいた。「そんなもの、子どもの為にはちっともならない」と断言した人がいた。名をジャン=ジャック・ルソーといった。

 

彼の教育論は大著『エミール』に詳しい。かいつまんで紹介すると、彼は子どもを生まれつき善であるという性善説から出発した。この考え、つまり、人間の子どもは生まれながらにはまだ動物的であるという古典的教育観を否定し、子どもは生まれつきに美の感情や善の力を有しているのであって、教育者はそれが内側から萌芽し成長していくように援助するべきである、という教育観は、ルソーの他にペスタロッチが主な提唱者として著名であろう。彼らは18世紀の人間であるから、比較的新しい教育観だといって良い。それぐらい、先の古典的教育観は長きに渡って根強く浸透していたのである。

 

ルソーは社会制度のことを、人間をこの上なく不自然にするものである、と断言し、子ども達を社会から隔離して教育を施すことで、人間が生まれつき自然に持っている素質を開発しようと考えた。いわば自然を教師とすることで、子どもの内在的な興味や好奇心に則った教育を行うことを重視したのである。ルソーは一般陶冶の立場から教育を考察し、従って、知識や技術の伝達ではなく、人間性の成長を教育の目的であると考えた。然るに、社会の形式や学校の因習に基づく教育を無意味であると糾弾し、自然を教育者とすることで、自分自身で考え行動することが出来る人間を育成することを目指したのであった。

 

さて、ルソーはそのような教育の実現には、感覚の役割が重要であると考えた(これはペスタロッチや幼児教育で著名なモンテッソーリの教育論にも共通している)。まだ記憶力も想像力も十分に働かない子ども達には、まず感官の正しい訓練を行なわせる必要があるからである。無論、彼の理論は理性の重要性を否定するものではなく、むしろ、知的理性の前段階として感覚的理性が求められるとの考えに基づいている。また、彼は自然な欲求に基づく知識欲が子ども達の自発性と内面的成長を促すと考え、注入主義的な教育を退けた。

 

ということはつまり、幼児教育に従事されている方ならよく分かると思うが、手遊びや造形活動・絵画制作、積み木やその他様々な玩具を使った「遊び」は、感覚を通した知的認識を積み上げることを目的とした、立派な教育活動なのである。

 

もしそのことに無自覚で、ただ奔放に遊ぶ事それ自体が子どもの本分であると信じているなら、それは事の本質を見誤っていると思う。ルソーは自然主義による教育の重要性を指摘したが、彼のいう自然とはあるがままの自然のことではなく、教育者によって配慮された自然のことである(あるがままの自然は子どもは愚か、人間には酷過ぎるのだから当たり前だ)。10代にかけてゲームやマンガから多くを学んだ身としては、そうした遊びを通した学びもまた大切だと思う。ただ何事もバランスがあるし、マンガやゲームにも色々だ。例えばスマートフォンゲームから学び得る要素は正直言って少ない。それを好き勝手にさせていて、それが子どもが彼らの本分を果たしている光景なのだとお思いになるのであれば、申し訳ないけどそれは呈のいい教育放棄だろう。

 

子どもにとって遊びが本分となり得るのは、子どもがそれを通して「学ぶ」ことができるからであって、学ぶ為の一つの方法が遊びであり勉強なのである。故に、子どもの本分は遊ぶことであるという主張は、このことを自覚している前提によってしか成り立つべきではないだろう。

 

ここまで来ると、私が申し上げたいことはもう何となくわかっていただけたであろう。それはつまり、「子どもの本分は遊ぶこと」という言明は、「子どもの本分は勉強すること」という言明と本質的にはあまり変わらないということである。ご案内の通り、元々はどちらも学習することを目的とした活動なのであって、どちらも大切なのである。社会の要請を無視するわけにはいかないし、子どもの感性や内的な素質を伸ばそうと援助することも必要だ。かといって彼らの好き勝手ばかりさせていると都合が悪い。そこで大人の配慮が子どもの行動に加えられるのであって、その相互の関係性を我々は「教育」と名づけているのである。延いては子どもの本分とは「成長すること」なのであって、教育はそれを支援するための営みなのである。

 

 

 

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漱石は人の世を「住みにくい」といった。それは智に働けば角が立つし、情に掉させば流されるし、意地を通せば窮屈である。成程住みにくそうである。でも、彼はまたこうも言っている。

 

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世がすみにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」

 

人の世というのは、住みにくいものだと僕も思う。人の気持ちも難しい。教育も難しい。生きていくのも難しい。難しい問題を簡単に片付けることはできるだろうけど、それは難しい物事が解明解決されたことを意味するわけではない。とりあえず話を進めるためにややこしいところを隅に押し込めただけである。はっきりとした物言いやわかりやすい言明が最近は流行だけども、僕はあんまりそういうのは信じない。だって物事がそんなに簡単には僕には見えないから。むしろ言い淀んだり、言葉に詰まったり、「たぶん」とか「いやまぁ」とか言いながら明瞭としない人のほうが信頼できる。

 

人の世は住みにくい。信念を貫けば頑固だといわれ、曲げれば意気地なしだと蔑まれる。優しければ頼りないといわれ、厳しくすれば人でなしと罵られる。勉強をさせればエゴだといわれ、遊ばせれば責任感がない糾弾される。

 

まぁでも、世の中そんなもんである。

 

そんな住みにくい世をどれほどか、くつろげて、住みよくするために。

 

人の本分とは、結局はそこに帰着するように思われる。その為には、色々学んでおいたほうがいい。少なくとも僕はそう思う。漱石先生が言っているのだから、きっと大はずれという事はない。たぶん。

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