教室ブログ

2017.05.26

必要と無駄の基準

こんにちは、WAM西浜校です。空が明るみを帯びる時間が早まり、間もなくの夏の知らせとも感じられますね。賞味な話、夏日が増えつつあります、体調は万全ですか?

毎回、抽象的なお話で恐縮なのですが、今回のタイトルについて、皆さんは、どういうことについてどういう風に基準を決めているでしょうか?

 

先日、テスト対策期間に中2生英数の集団授業を行いました。新しく受けてくれた子もいれば、自分がこの西浜校に来てから行い始めた時期から出席してくれている子も居りました。生徒たちを取りまとめる分、普段の学校の授業を受ける様子も多少垣間見れるので、生徒達からすれば嫌でしょうが、自分からすれば有意義な時間でもありまして・・・。

 

一人一人の様子を見ていると、背景として、「十二分に話を聴けていない」「部活の疲れが溜まりついつい居眠り」などの個人的背景もあるかとは思うのですが、自分の視点からして総じて思えたことは、板書したことを「全てきちんと書けていない」ことでした。

何事につけても新しいことを学ぶ時、何が必要で何が無駄かを自信や根拠を持って言えるでしょうか?その基準を決められるでしょうか?自分には出来ません。絶対に。

 

ですから、それが必要か無駄を考える以前に、「書かれたことはとにかく全部書きなさい。必要か無駄かどうかは後でも決められる。学校ではその授業は二度としてくれないから」と声を荒げて言ってしまったのは大人気なかったので反省ではありますが・・・。

 

「自分でやってみて「ダメだ」と分かったことと、初めから「ダメだ」と言われたことは違う」

 

前回に引き続いてイチローの言葉です(何度もすみません・・・)。個人的には「ダメだ」の部分は「無駄だ」、「分かった」「言われた」は能動的に「思った」とも置き換えられるなぁともつくづく思った次第です。そう思った時、不気味なぐらい合点が行きました。アウトプットには、脳内がはち切れんばかりのインプットが必要だと思うので・・・。

 

自分の必要と無駄、かつ他人の必要と無駄は実は同じくして、微細な違いがある、同じである所はいわゆる「常識」や「摂理」のようなもので、微細な違いは恐らく以前述べた「自分自身の成長」などについてなのだろうかと思いました。それは絶対に自分自身にしか当てはまらないモノでしょうから。

知識と経験の詰め込みは短期間で出来るだけ多く、それらの出し入れや整理は時間をかけてゆっくりと、新しいことを気持ち1つ、2つ詰められるスペースは作りながら。

私自身も自分でやってみて「ダメだ」と納得しないといけないことはまだまだこれからもあると思います。自分の知識・形にする為には、正直周りからの微細な違いや違和感故の冷やかし・批判はあるのでしょうが、やはり経験(失敗)が一番だと思います。

 

改めて、新しいことを学ぶとき、「書かれたことは全部書く」「ノートはしっかり漏れなく取る」ことを伝えていければと思います。

子供たちが将来従事するであろう仕事においても、「メモ」という形で存在するでしょうから。

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