受験が終わり、無事多くの生徒が新たなステップへと巣立っていきました。僕らはまたすぐ次に向けて歩みだしていきますが、ほんの少し肩の荷が下りたような、ほっとしたような、そんな心持がしています。
何度経験しても、なんとなく慣れないというか、どうにも理解できないというか。その度に新しいことを教えられます。まるで繰り返し読む本のように。同じストーリーなはずなのに、また読み返すたびに今まで読み落としていた言葉を見つけ、抱かなかった感情に触れ、理解できなかったメッセージを受信する。僕は生徒として受験を経験し、教育者として今なお経験し続けて。読み古した本と違って、ストーリーは毎回異なるけれど、それでもこんなにも違うものかなと。こんなにも違えるものなのかなと。一年ごとに困惑させられます。
僕達は個別指導ですから、受験というゴール自体はみな同じでも、それに対する生徒の思いや熱意、目標はそれぞれ異なります。キャラクターにしたって、繊細で悲観的な生徒もいれば、楽観的で図太い生徒もいる。努力を惜しまない生徒もいれば、できる限り楽しようとする生徒もいる。同じ生徒でも、時には感情が溢れ出したり、開き直ったり、何かがプツンと切れてしまったように自堕落になってしまうこともある。加えて、それら個人の集合体として教室が存在している限り、僕らは個々に対応しながらも、ある程度は全体としての統制を考えなければならない。講師と問答を繰り返しながら勉強したい生徒がいれば、まずは自分でじっくりと問題に取り組みつくしてから質問する生徒もいる。ならば前者にはある程度静かにしてもらうよう伝えないといけないし、でも必要以上に押さえつければその子にとっては逆効果にもなりえる。
シャワーを浴びながら目を閉じていると、自分はいったい何をすればいいのか、何が正解で、どう振舞うべきなのか、わからなくなるときがあります。その子のことを思って厳しく指導しても、それが理由で投げ出してしまうかもしれない。でもその半年後には、あの時もう少し頑張らせていたら志望校に受かったろうに、と思っているかもしれない。
ベッドの上に横たわって真っ黒な天井を見上げていると、受験とはいったい何なのか、これは本当に教育と呼べるのか、不安に思うことがあります。受験に向けたテクニックばかり教えていても、それは本当の意味で知性を磨いているとは言えないかもしれない。でも無事高校に入ってから、あの時学んだ技術のおかげで授業が楽しい、と思ってくれているかもしれない。
実際、上手くいかなかったこともたくさんありました。そっとしてあげようと思って気遣ったら非人情だと思われたり、目標を達成させてあげたいと思って指導したら厳しすぎると言われたり、明るく声をかけたら常識がないと責められたり。そりゃあ上手くいった事だってたくさんありますが、きっとこれからも似たようなことは起こるでしょう。推し量る努力はしていますが、最終的には人の気持ちはわからない。
でも今のところ僕が辿り着いている結論は、わからないならわからないなりに前へ進んでいくしかない、ということです。だって地球は回り続けるから。
僕がまだ二十歳ぐらいだったころ、当時の彼女にこっぴどくフラれたときに、平気な顔で街を行き交う人々のことを、本気で恨めしく思いました。「なんで俺がこんなに辛いのに、どうしてこんなに悲しいのに、こいつらは笑って街を歩けるんだよ」って。なんで歩みを止めてくれないんだって。なんで「ちょっときみ、大丈夫かい」ぐらい言ってくれないんだよって。あるいは肩を抱いて励ましてくれないんだよって。
こんなときぐらい、止まってくれたっていいじゃないか、地球も、時計も、人々も。
だけどたぶん、今振り返って思うのが、だからこそ僕は立ち直ることが出来たんだっていうことです。それでも地球は回るから。それでも時計は進むから。だから自分も、歩んでいくしか仕方なかった。それでも回る地球の引力に、引きずられてでも一緒に回っていくしかなかった。それでも進む時計の針に、急かされてでも動かなくっちゃならなかった。それでも歩みを止めない人々に、這ってでも追いつかなくっちゃだめだった。
そうして引きずられてるうちに、いつの間にか自分の意思で、いつの間にか自分の足で、前に進んでいることに気がついた。この経験があったから、僕は今まで恐々だった大人の階段を、一気に駆け上がることが出来たんだと。
だってどうあがいても、地球は回り続けるんだから。いくら悔やんでも過去にはもう戻れないし、いくら遠慮しても自分は確実に年をとっていくし、どれだけ懐かしんでも去った場所にはもう帰れない。だから前を向いて歩んでいくしかない。子供のうちは、いくら頭でわかっていても、いまいち実感が持てなかったんです。年をとるとか、いつか自立していかなきゃいけないとか、若さや人生には終わりがあるとか。知ってはいたけど、どこかでそれを疑っていた。どこかで自分はいつまでも若いままなんじゃないかって、どこかで時間は永遠に残されているんじゃないかって、だからいつまでも悔やむことに時間を費やしても、懐かしむことに思考を費やしても、何も考えずフラフラすることに人生を費やしても、別に何とかなるんじゃないかって、そう思っていた。『バニラ・スカイ』でトム・クルーズが演じたお坊ちゃんのように。
そんなことはないんです。そんなことはない。本当に。わかっていたけど、それを究極に実感したのが、あのときの経験で。そして保証しますけど、皆さんにも必ずそんな機会が訪れる。それが10代のうちなのか、二十歳の頃なのか、はたまた還暦を過ぎてからなのかはわからないけど。
で、僕が受験について思うのは、これってそれを実感できる物凄くいい機会なんじゃないかなっていう事なんです。皆が皆にというわけではないでしょうけど、かなりの確率でそうなる可能性がある。だから僕は君達に、できる限りの熱意を持って、できる限りの努力をしてほしいと思ってるんです。それは必ず君達の人生を豊かにするから。そりゃあ、何とかはなるんです。ここは日本だし、今は21世紀だし、高校はいくらでもあるから。どんな高校に入っても、あるいは中卒でも、別に野垂れ死んだり投獄されたりするわけじゃない。生きていけるし、人生なんとかもなる。
でも、大して好きでもない相手と惰性で付き合っていても、多分その経験って君には大したことを教えちゃくれない。同じことで、なんとかなった程度の人生って、何なんでしょう。何かを成し遂げたでも、成し遂げようとしたでも、なんとかしたでもなく、なんとかなった人生って。いやだって、人生なんとかなるんですよ。現代日本人の大多数は悲劇にでも見舞われない限り(その確率だって世界的に見れば十分に低い)、人生なんとか生きていける(いけない人だっているのも見過ごせませんが)。それって最低限じゃないですか。誰もひっかからない最低基準を持ち出して、したり顔で「いやまぁ人生なんとかなるでしょ」って言われても、僕はそれってどうなんだろうと思ってしまうわけです。なんなんだろうといぶかしんでしまうわけです。
人生はなんとかなる。その言葉を誤って解釈し、都合よく利用してはいけません。いやまぁしてもいいんですけど(人生なんとかなりますから)、もっといい使い方があるはずなんです。なぜって、人は往々にして、どうしたらいいかわからない事態に巻き込まれることがある。何が正解なのか皆目つかない難題に直面することがある。そんなとき、君を勇気付ける言葉として、あのフレーズを使うべきなんです。それでも上手く対処できなかったり、大失敗を犯したり、難癖を付けられることもあるでしょう。裏切られたり、傷つけられたり、挫折したり、失望することもあるでしょう。そんなとき、君が前を向くための言葉として、あのフレーズを口ずさむべきなのです。
だから僕らも、必要だと思ったことは伝えるし、おかしいと思うことは指摘するし、受かったら祝福する。だって僕は、真剣に彼らの勉強に向き合っているから。言葉の選択を間違えることはあるかもしれない。気に食わないことを言うかもしれない。しつこいと思うかもしれない。でも、僕は悩んで、考えて、それを何度も経験した上で、それでもあえて伝えているんです。それで上手くいかなかったときもあったけれど、”gotta move on”、前に進んでいくしかない。だって今も、現にこうして、僕らを頼ってくれている生徒がいるんだから。地球は回り続けるんだから。人生なんとかなるんだから。
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英語では「卒業」のことを”graduation”と言います。その語源であるラテン語の”gradus”は「階段」という意味で、同じくラテン語で”gradior”という言葉がありますが、これは「歩く」と訳されます。
去る三月、日本中のあらゆる教育機関で、幾多の生徒達が「卒業」を果たしました。これから彼らは、また新たな学校へ進んで行ったり、あるいは社会に出て労働に従事していくことになります。
今年は高校受験に加え、中学受験生も志望校合格と共に送り出すことが出来ました。皆さん本当にお疲れ様。よく頑張ったね。
今回の代は、僕にとって本当にしんどい(といったらまぁ失礼なんですけど)というか、難しいというか、色んなことを教えてもらった学年でした。一年生から見てきた初めての受験生だったこともあって、勉強面だけでなく、生活面や精神面、その他様々な面から教育や指導について考えさせられた生徒達でした(いやまぁ本当に失礼なんですけど)。でも三年生の途中から入ってきた生徒達が硬直した雰囲気をガラッと変えてくれて、彼らには本当に感謝してます。長年付き合ってくれた生徒達には、どうしたらいいかわからなくなって、変に厳しくしたり、やたらと甘やかしたり、色んなことがあったと思うんですけど、その辺りは上記にご案内の通りですので、どうかご容赦いただいて。
皆さんにとってこの卒業という名のステップ、階段が、今この時点でどのような意味を持つものであるかは、僕には推し量ることしか出来ません。いい思い出かもしれないし、大した思い入れはないかもしれない。ただはっきりと言えるのは、中学卒業というのはあくまで一つの「ステップ」であって、それが紡ぐ「階段」は、君たちが歩みを止めない限り、足を踏み挙げ続けるその限り、どこまでも続いていくのだという事です。本当に。どこまでも。
ちなみに残念なお知らせがありまして、君が歩みを止めたいとするじゃないですか。そんなんしんどいわって。でもね、周りはそれには付き合ってくれないんです。少なくとも地球と時計と街行く人は。そんなこと、気にも留めてくれません。でもだからこそ人は、半ば引きずられるようにしてだって、のぼらなくちゃという気になるんですよ。恨んじゃいけません。ある程度上に昇れば踊り場がありますから、せめてそこまでがんばりましょう。
あと一つ。一度踏み越えた階段には、懐かしむことはできても、もう二度と戻ることは出来ません。でもね、これは悪いことじゃありません。だって、階段を昇っていく度にそこから見下ろす階段の見え方は変わってきますから。当時は苦しくて仕方なかった段差でも、ふと振り返ると「あぁあのときのおかげで今があるんだなぁ」と思えたりとか、あるいは「あの時もっとこうしていればよかったなぁ」って反省することで、これからの階段のぼりに活かせるかもしれないじゃないですか。
そうなんです。階段をのぼってきたからこそ、今の君がある。目の前の階段をのぼるからこそ、その先にまた君がいる。進んでいくにつれ、眼前に広がる景色は表情を変える。のぼっていくにつれ、眼下に望む情景は色を変える。どんな経験であっても、どんな過去であっても、そのステップを踏み越えたからこそ、いま君はそこに立っている。だから今、君たちが乗り越えたばかりのこの階段は、未来永劫、君が踏みしめた階段の一つとして、君の眼下に佇みつづけていくのです。先へ先へと進んでいけば、この階段の見え方も変わってくるでしょう。角度によっては見えなくなるときもあるかもしれない。でもこのステップは必ず存在しているし、忘れようとしても、必ず何かふとしたきっかけで思い出されるはずなのです。そんなとき、いつか訪れるそんなとき、少しでも君の助けとなる記憶となっていれば、幸いのことと思います。
そんな僕も、こうして一つのステップを君たちと共に乗り越えました。僕はもう大人なので、息つく間もなくまた新しい階段をのぼっていきます。でも、どれだけ先へ進んでいったとしても、どれだけ踏み越えた階段の数を積み重ねても、僕は君たちと歩んだこのステップを忘れることはありません。そしてまたいつか、ふと振り返ったそのときに、君たちと過ごしたこの階段から、勇気と知恵と反省を、君たちの懐かしい笑顔と共に見出すことを期待して、この言葉を送るのです。
皆さん、「卒業」おめでとう。
P.S. これからもよろしくね。