教室で配布している「Wamだより」でも紹介したのですが、ある生徒がこの前、教室についての作文を書いてくれました。本人の許可を得たので、下記に掲載します。
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Wam
私はこのWam庄内校に入ってまだ三ヵ月ほどしか経っていませんがWamは私の人生にとってすごく大きな存在になりました。
Wam庄内校の一番驚きまた一番の魅力だと感じた点は塾長を含めた講師と生徒の距離です。本当に距離が近いのではなく心の距離のことです。
先生は皆、私たちと同じ目線で話してくれます。コミュニケーション能力が高く個性的な方ばかりです。今までたくさんの習い事をしてきましたが、習うのが楽しいと思わせてくれるのは、ここが初めてです。
来て良かったと心の底から思います。
少し話は変わりますが塾長についてです。庄内校の塾長は何を考えているかまったく読めない人です。私が数学で二点を取ったときに何を言われるのかこわく、みせるのに勇気が必要でしたが一番予想もしていないことを言われました。
褒められたのです。最初はおちょくられているのかと思いましたが、そうではなく、本当に褒めてくれていました。それと同時に、もっと良い点数を取ってみせようという気になりました。
何でも否定から入るのではなく、受け入れようとしてくれる所にひかれました。
あと、作文で塾長のことを書くなら褒めてと言われたので良い所は、箸の持ち方が良い所と、保護者の方と面談するときはおそらく足を相手の方にあたってしまうと失礼なのでいすのできるだけ内側にしまいこんでいるところだと思います。
私の人生の中で今一番スポットライトを、浴びているのはWamです。
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なんだか自作自演を疑われるぐらい良いことしか書かれていなくて僕も照れくさいのですが、これは生徒が自主的に書いてきてくれたものです(ホントですよ?)。国語の授業でちょっとした作文的なものを取り扱ったのですが、どうやらそれが楽しかったようで。自ら「Wamについて書いてくる」と申し出てくれたので、「どうせなら褒めてね」と返したのは覚えています。まさかここまで褒めてくれるとは思いませんでしたが(そもそも本当に書いてきてくれるとは)。笑
こんな心温まる文章をもらって、改めて教育について色々と考えさせられました。そしてその豊穣性に改めて圧倒され、感動した次第です。
教育には「ただ一つの」正解なんてものはありません。これさえやれば上手くいく、こうすれば万事解決である、なんて方法はありませんから。Some might work for some but not for others, others might work for others but not for someとでもいいましょうか、ある方法はある人たちには上手くいくかもしれないけれど、他の人にはそうではない。それの繰り返しではないかと思うのです。
であるから、学校にはできる限り色んなタイプの先生がいたほうがいい。教育機関は、それがひとつの生命体として存在しています。一人の先生がどんな生徒とも保護者とも良好な関係を築くべきだ、なんてことを要求すると、その先生はパンクする。そんなこと不可能だから。でも、その先生には口も聞かない生徒がある先生には心を開いて接することができる、なんてことって良くある話で。それでいいんです。ある先生では上手く対処できないことに他の先生だと対処できる。それができないという事は、つまり、同じような先生ばかりが集まっているということは、その先生では対処できない生徒は、そこから爪弾きにあうということです。そんなこと、公教育ではあってはならない。
ですから、学校にしても教育機関にしても、できる限りそこには様々な種類の先生がいたほうがいい。それを教えてくれているのは、実は夏目漱石の「坊っちゃん」なんです。坊ちゃんという作品は、漱石が愛媛は松山で教師をしていたときの生活をモデルにしているんですが、そこに出てくるのは「狸」、「赤シャツ」、主人公の「坊っちゃん」、他にも「山嵐」に「野だいこ」、「うらなり」というあだ名を持った、それぞれ特徴的な六人の先生です。で、この作品が教えてくれるのは、先生というのは実はこの六種類いればいいんだということなんです。本当に(どんな先生達であるかは、ぜひ作品を読んで確認してみてください)。この六種類の先生が適材適所に存在していれば、教育現場は基本的には上手く回っていく。漱石は、この六人六色の教師たちが、「学校に必要不可欠な六種類の教師像そのものである」と直感してこの作品に描写したわけです。
ですから僕も、自分の教室にはできる限り色んなタイプの先生がいればいいと思っています。だって、僕のことが苦手な生徒だって絶対いる。僕はイエス・キリストじゃありませんから、誰からも尊敬され敬われるような人間になんて(なる努力はしていますが)なれません。だから僕たちは一教育機関として、自分では上手く対処できなくても他の先生なら上手く対応してくれる、そういう一つの生命体としての免疫力(というと聞こえが悪いですが)を可能な限り高い水準で持ち合わせておくべきだと考えているのです。
それは僕は、塾業界全体に言えることじゃないかと思います。僕らの塾では上手く対処できなかった生徒でも、他の塾なら上手く対処できる。そういう豊穣性を塾業界全体が保っていなければ、つまり、どこもかしこも同じような塾ばかりになってしまったら、いつか日本の教育は大変なことになってしまう。
今回、この生徒はたまたま僕らのことを凄く気に入ってくれて、こんなにも心温まる作文をプレゼントしてくれた。きっと僕らは彼女にとっていい塾で、いい先生だったんだと思います(そこまで深く考えてるわけでもないかもしれませんが)。でも、そうじゃなかった生徒もいる。きっとその子たちにとって僕らはいい塾ではなかったし、いい先生ではなかった。今まで何度もそれで悩まされました。何が正解で、どうするのが正しいのか。
でも、あの作文をもらって、一つ確信がつきました。それは、僕達はこの「教育の豊穣性」を信じて前に進んでいかなければいけないということです。何があっても。上手くいかなかった事はたくさんある。そりゃあ落ち込みますよ、僕だって好きで人に嫌われたいわけじゃない。でも嫌われたことだってあったし、今もあるだろうし、これからもあると思う。
でもいま、今この瞬間、目の前に僕達を信頼してくれている生徒達がいる。大人たちがいる。僕はその子たちのために、その人たちの為に、これからも全力を尽くしていかなければいけない。尽くしたい。
そして僕達とは袂を分かってしまった人たちには、教育の豊穣性を今一度信じていただきたい。それはつまり、世の中には必ずその子と相性のいい先生や、教室や、学校が存在するはずだということです。それはつまり、生徒は実はどんな教師からも学ぶことができ、そして教師が教えてくれなかったことすら学ぶことができるということです。それはつまり、教育にはタイムラグがあって、蓄積した学びがいつ開花するかはわからないということです。
ですから、例え僕らのところでは上手くいかなかったとしても、それは僕がまだ「坊っちゃん」で、その子には「赤シャツ」の方のほうが良かっただけなんです、きっと。同じことで、学校や他の塾や家庭教師や、そういったところでは上手くいかなかったとしても、僕みたいな「坊っちゃん」とは相性がいいかもしれない。
だって現に、こんな坊っちゃんにこうしてついてきてくれる生徒がいる。
それだけで僕はこれからも、どこまでも頑張れるような気がするんです。
そんな坊っちゃんについていきたいという生徒は、どうぞWam庄内校にお越しください。
ちなみに庄内の道後温泉こと、五色にもよく出没しますので。