こんにちは(これを作っている時間は完全に夜ですが・・・あえて普遍的な挨拶を。)。
Wam西浜校です。
昨日、和歌山ではエクストラスーパームーンが見られず、残念でした(今日の夕方あたりは辛うじて見られたようです
が)・・・。
なんと68年ぶりであるというこの現象ですが、ひと月で満月から次の満月に変わるのも、
彗星の軌道も、太陽や惑星の自転や公転も四季折々の風景や気候も、ほとんどすべての自然現象は、長い目で見ると普遍的な
ものなんですよね。
住んでいる国や地域によって太陽の軌道の見え方が変わったり、昼夜が逆転することがありますが、これも
現地の人たちにとっては普遍的なことなのではないでしょうか?
時の流れとともに移り替わるべきものとそうあるべきでないものはやはりあると思います。
例えば、先述の自然や原理はどちらであるべきかは然り、しかし、人間的な成長についてはどうでしょうか?
漫画「北斗の拳」にて「無想転生」という究極奥義があります。「この世で最強の物は無、その無より転じて生を拾う」が
この奥義の極意なのですが、要は「哀しみを知らないものにこの技の体得は120%不可能」ということです。
主人公のケンシロウは数ある強敵(作中では当て字で「とも(友)」と読みます。)たちとの死闘・修羅場を潜り抜け、
その経験・記憶を心に刻みつけていきます。強敵たちには、ケンシロウの敵として相対せざるを得なかった止むを得ない、
理由・過去がありました。その彼らの心の傷や重みを慮った上で、相手を倒すことが情け・愛情と考え、拳を交えます。
ケンシロウはその激闘を重ね、物語序盤は実力で大きく水を空けられていた北斗4兄弟の長兄「ラオウ」との最終決戦に
挑みます(因みにケンシロウは4兄弟の末弟です)。ラオウの振るう強大な闘気と剛腕の中で、ラオウが荒々しい激流の
「動」の動きとするならば、ケンシロウは清か緩やかな静水の如く「静」の動きでラオウの技を受け流し、かつて戦った
「強敵」たちの奥義をラオウに向けて繰り出していきます。さらに、闘いに対する姿勢、技の切れ、動きなども、彼らの
生き写しそのモノ。ケンシロウは、ただ目の前の敵を倒しただけではなく、「強敵」たちとの関わりの中で、
自分の身の程を知り、彼らに教わり、その経験を自分のものにしたのではないかと思います。そして、相手の心の奥底に
秘められた心の傷・重み、もっと言えば苦しみをすくい取り、記憶・経験として彼らを自身の心の中で生かしているのではな
いかと思います。その時ケンシロウの実力は、ラオウを凌ぐことになりました。ラオウからすれば、過去に嘲っていた相手
に恐怖を覚えることになったのです。ケンシロウは数々の「強敵」たちとの戦いと、そこで目の当たりにした当人たちの
哀しみを自分に投影し受け入れることが、実力的にも人間的にも成長するきっかけになったのではないかと思います。
この漫画を、たまに読み返したくなってくるので、読んでいると、「自分の心の中に生きている」とか、「離れていても心は
そばにいる」という意味がしみじみ分かる気がします。
それを受けて、普遍的であるべきものは人の心を慮ることではないかと思います。やるべきことはそうだとして、
そしてそれに対してどのような形で答えるべきか?愛情をもってか?それとも非情さか?相手に対する当事者意識を持ち、
その経験を通して、例えば間違いから何を学ぶか?相手の哀しみから何を学ぶか?方法論はいくらでもあるのではないでしょ
うか?
反対に普遍的であるべきでないもの、言い換えれば唯一無二の物であるべきことは、自分自身の成長だと思います。普遍的な
事から学び、その経験・記憶、そして他人との関わりから何を学び、自分の知識・技術・生き方・考え方に変換していくか、
そのことは絶対に自分自身にしか当てはまらないものだと思います。
「何事も先人から学び、1つの型を作る、想像・分析し、自分の型を作るのはそこから」だと思います。
私自身の心の中にも、たくさんの人が生きています。自分自身の無想転生を繰り出すタイミングは決まっていません。
あくまで臨機応変です(ケンシロウの無想転生を繰り出すタイミングも臨機応変です。突発的に何もない状態から繰り出すか
らです。)。あなたの心の中には、どれだけの人たちが生きていますか?そして、どれだけの無想転生を持っていますか?