教室ブログ

2016.11.15

一人で生きていくということ

“Uncoachable kids become unemployable adults. Let your kids get used to someone being tough on them. It’s life, get over it.”

 

「教えようのない子供は雇いようのない大人になる。誰かに厳しくされることを子供に慣れさせなさい。それが人生なのだから。乗り越えなさい、その程度。」

 

名門アラバマ大でソフトボールを指導しているパトリック・マーフィーという人の言葉らしい。その通りだと思う。

 

Unemployableの場所には、色んな言葉が代用できるだろう。Unhelpable(助けようのない)でもいいし、unacceptable(受け入れようのない)でもいい。人の話や指示を聞けないだとか、言われたことをしない・できないだとか、教わったことを受け入れないだとか、そういう「教えようのない」子供がそのまま成長してしまったときに、成熟した大人として社会に貢献できるようになっているとは到底思えない。

 

なるほど、「別にそんな大人にはなりたくない」と仰るかもしれない。もちろん、そういう人間のことを我々は「子供」と呼んでいるのである。

 

ご自身の”so-called”(いわゆる)こだわりというものを持つことは大変結構なことだと思う。「俺は誰の指図も受けない」なんて台詞を吐くアウトトローには、誰もが一度は憧れるだろう。しかしハリウッド映画が教えてくれるのは、そういう人間はトム・クルーズよろしくの美貌と身体能力と権力を兼ね備えた「規格外」の能力を持っているが故にアウトローでいられるのであって、そうでない凡人は「俺はこんな場所に留まるのはごめんだぜ、お前らがそうしたいなら勝手にやってろ」と吐き捨て出て行ったが最後、一番初めに怪物に殺されるのがパニック映画の「お決まり」であるということである。

 

人は一人では生きていけない。映画や小説をフィクションだと侮る人もいるが、私はそうは思わない。パニック映画というのは、「前代未聞」の事態に直面した際、人は知りうる限りの情報を共有し、可能な限り知恵を振り絞り合い、協力し合うことができた(そして少しラッキーだった)人間だけが生き残ることが出来るという、大切な教訓を教えてくれる貴重な教科書なのである。

 

親や他の大人に、「自分一人で生きていけるような人間になりなさい」という事を言われたことがあるかもしれない。あれはなにも、誰の支援がなくとも生活に困らないほどの資産を持ち、堕落しないよう自分を律する自制心があり、困難に陥っても独力で窮地を脱することができる能力を備えた人間になりなさい、ということではない。そういう人間になれるのであれば、もちろんなるに越したことはないだろう。でも残念ながら、僕はそれは不可能だと思う。だって、人は誰かの支援がないと生活が立ち行かなくなる局面に往々にして直面するし、誰も見ていないと堕落した生活を送りがちだし、しんどいときにはナーバスになる。病む。誰かの助けが欲しくなる。

 

それでいいのである。全然いい。一人で生きていける人間になるというのは、先に述べたような、それこそ「アウトロー」を務められるようなスーパーマン的人間になるということではない(あなたがトム・クルーズでない限り不可能だから)。一人で生きていける人間になるというのは、真に逆説的ではあるが、そもそも「一人で生きていかなきゃならないような状況に自分を追い込まない人間になる」ということである。

 

考えてみればわかる話だが、一人で生きていく必要を迫られる状況って中々のものである。普通そんなことにはならない。何をすべきかわからなければ素直に人に聞けばいいし、辛いときは恥じ入らずに友人の胸を借りればいいし、お金がない時は親や、ダメなら親戚でも友人でも頭を下げればいいのである(「お金は何に使うんだ」とか「お前はお金が降ってくるとでも・・・」なんて聞かれたくないことや耳の痛い小言には耐えなければならないけれど、消費者金融に借りて債務に追われる羽目になるより百倍マシである)。一人で実家を出て見知らぬ土地で望まぬ新社会人生活を送らされる羽目になった、なんてこともあるかもしれない。それにしたって、そこで出会った人、縁のあった人と適切に良好な関係を構築していくことはできる。

 

それができないんだという人もいると思う。そんな簡単に言うなと。なるほどそうかもしれない。でも、僕にはそれが「一人で生きていけるだけの資産」と「常に自分を律することのできる自制心」と「独力で困難を切り抜けられる能力」を身につけることよりも難しいことだとは到底思えない。

 

一人で生きていかなければならないような状況に追い込まれるのは、わからないことを人に素直に尋ねることができず、弱さを見せるのは恥だと思って人を頼らず、頭を下げることやお金を借りるときに言われる小言や感じる羞恥には我慢ならず、初対面の人に気さくな表情と声色で話しかけることもできないからである。

 

そんな人間、一人で生きていけるわけがない。

 

だから、「一人で生きていく」とはつまり、「一人で生きていかなきゃいけないような人間にはならないように生きていく」ということなのである。

 

そう突き詰めていくと、話は最初の名言にまで遡る(だいぶ遡ったな)。”Coachable”とは、「指導可能な」という意味である。”Uncoachable”とは、「指導不可能な」という意味である。Coachableな子供とUncoachableな子供のどちらが、僕の言う「一人で生きていく」ことができる大人になる可能性が高いかは、一目するまでもなく瞭然である。

 

教育に託された至高の使命は、子供たちを「成熟した社会成員として社会に送り込むこと」だと以前も書いた。いい大学に入れることでも、一流の会社に就職させることでもない。ちゃんと挨拶ができて、相手の気持ちを汲み取ることができて、どうしようもない時は助けを求めることができて、そんな人がいれば手を差し伸べることができる、そういう人間をできる限り多く社会に送り込むことである。それができる人間はハッキリ言って、お金がなくても勉強ができなくてもいい会社に勤めていなくても、生きていけるのである。言い直そう。「一人で生きて」いけるのである。僕が言うところの。

 

子供が既成の社会やルールに対して反発や反感を覚えるのは当たり前である。それらから逃れたいともがくのは無理もない反応である。赤子の時は自分が不快に感じれば相手のことなどお構いなしに泣き叫ぶし、幼児の時は何を言われても嫌という。十代になれば盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎で窓ガラスを壊してまわりたくなるときもあるだろう。自分らしさを追い求め、自分の感情をありのまま表出させることがかっこよく見え、既成のルールや決まりに唾を吐きたくなるときもあるかもしれない。

 

君のいう事もわかる。

 

でも、「君のいう事もわかる」という台詞の後には、「けどそのままじゃいけないんだよ」という言葉が続く。大人は気を使って言わないだけで。

 

子供の気持ちをわかってあげてほしいとか、子供の視点に立って接してあげてほしいと仰る方がいる。子供とコミュニケーションをとる上では結構有効なので、僕もよくその手を使う。自分も同じ歳だった頃があるのだから、子供だった頃の自分に立ち返れば彼らの気持ちはある程度わかるし、彼らの視点にも立てる。

 

でも”with all due respect”(満腔の敬意を持って反論しますが)、残念ながら、それは彼らとコミュニケーションをとる上で一定の有効性があるというだけで、指導においても等しく有効であるというわけではない。例えるならば、前者は「君のいう事もわかる」という立場に留まって関係性を築くことである。後者は「けどそのままじゃいけないんだよ」という「その先の真理」を伝え、理解させることである。つまり、「指導する」ことである。

 

考えてみればわかる。一歳児が不快なことがある度に泣き喚くのは仕方ないから理解できる。だからといって、そのまま不快なことがある度に泣き喚く大人に育っていいとは誰も思わない。子供が悪ぶって大人ぶってタバコを吸いたくなる気持ちはわかるけれど、だから吸っていいという結論には誰も至らない。後者の方がコミュニケーションは円滑に進むかもしれない。仲は良くなるかもしれない。でもそれは「指導」ではない。指導でないなら、近所の兄ちゃんでもできることだ。僕たちは近所の兄ちゃんではない。気持ちがわかるのと、それでいいと認めるのとは別の話なのだから。指導とはそういうものである。躾といってもいい。

 

子供たちは皆uncoachableである、と言えばかなり語弊があるが、どちらかというとそちらよりな子が多い。人の指示を素直に聞けないし、他人を思いやる気持ちも未熟だし、自分勝手だし、わがままである。もちろん、そうでない生徒もいる。小学生なら聞き分けの良い子も少なくはない。しかし申し上げているように、十代のどこかでは、いわゆる「大人の社会」とかその決まりとか、そういうものに唾を吐きかけるような時期を迎える。それは、また繰り返しになるが、仕方のないことである。

 

初等・中等教育が担う役割は、そんなuncoachableな子供たちをcoachableな子供として次のステージへと送り出してあげることだと思う。極論を申し上げると、それだけでいいのである。別に勉強が出来なくても成績が悪くても(いいとは言わないのだが)、人の指示や助言に耳を傾けることができ、逆に求めることもでき、誰かにものを教わることの有意性を理解することができていれば、おそらくその子は一人でも生きていける。さすがに間が空いてわかりにくいかもしれないので確認の為に言うと、一人で生きていかなきゃいけないような状況に自分を追い込まないように生きていくことができる。

 

そのうえで「どう」生きていくかは、君たち次第なのである。

 

 

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教室長を任されてから、今が三年目になる。おかげさまでたくさんのuncoachableな生徒たちと苦楽を共にしてきた。黒板に書いてある漢字すらひらがなで書いたり、人の話を欠片も聞いてなかったり、約束を破られたり。勉強を教える以前の問題にぶち当たることがこんなにも多いとは、この世界に飛び込む前には思ってもみなかった。

 

でもなんだかんだと、ちょっとはcoachableな方向に寄せて送り出すことができたかなという生徒もぼちぼちいる。理想通りにはいかなかったけれど、あれでもだいぶ良くはなったので、申し訳ないがあとはあの子たちの高校や大学やアルバイト先の指導役の皆さんにお任せする次第である。お手間をかけさせるが、ご容赦いただきたい。

 

十月のがんばったで賞を送った生徒も、そんな生徒の一人である(まだ通塾中だが)。小学六年生の頃から見てきた、愛着のある生徒だ。本人が読むかもしれないので気を悪くしたら申し訳ないのだが、最初は気難しい子だと思った(ごめんよ)。聞き分けもいいし素直なのだが、いわゆる「真面目なふり」をするのが上手な子だった(物凄くごめんよ)。Uncoachableにも色々と種類があるのである。

 

面談もやりにくかった。親子間での不和がありありと伝わってきた。いっそのこと面と向かって罵倒しあってくれたらやりやすかったのだが、二人とも横を向いて淡々と反論しあうので、僕のような若造はたじたじだった。

 

そこからしばらく経って。いったい何が理由なのかは皆目つかないが、なぜか物腰が柔らかくなった。気難しさが消えていた。「ふり」ではなく本当に真面目に取り組むようになった。よく質問し、学習に意欲的になった。その兆候が見えてからの面談は、それまでと比べ物にならないほどやりやすいものだった。

 

家で何か転機があったのか、それとも学校でなのか部活でなのか、さっぱりわからない。僕らの手柄とはおこがましくて口が裂けても言えないのだが(ちょっとぐらいは貢献できていると嬉しいけど)、まぁそんなことはいいのである。

 

その子の成長を肌で感じることができて、目撃することができて。それだけで、一教育者としてこれほど嬉しいことはないのだから。

 

この調子でcoachableな君でい続けてくれたなら、きっと君は、もう一人でも生きていける。僕が保障する。本当に。

 

さて、問題は。

無事Coachable(指導可能)な生徒になったそんな君が、次に立ち向かうべき問題は。

 

そこから先は、言わなくてもわかるよね。

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