こんにちは。Wam六十谷校の松田です。
今回は、精一杯について
人はある程度落ち着いてくると、人を先導することであったり、見守ったりと、
先生という立場に慣れていってしまうものではないか、とおもいます。
私もそういう人を多くみてきていますが、私はやらないといけないことも多いので、そういう人にはまだまだなれそうもありません。
しかし、最近おもうのは、生徒同様、主体であるという認識をもつようにしています。
生徒もやらないといけないことが多くあります。分野の違いはあれ、
一緒の気持ちでしんどいことや辛いこと、楽しいことなどを共感していきたくおもっています。
人を先導すること、というのは、その人の上であったり先にいる、といった前提のものであり、
また、見守る、というのも、先にいる上で、目的地で待っている、というようなニュアンスが疑えます。
もちろん、何でも知っていてその目標とするところにいる人も、いるとおもいます。
しかし、その人自体が立ち止まって、ただ待っているものだとするなら、矛盾的ではありますが、目標とすべき目標にならなくなるものです。
ある意味では、目標は平行線をたどらなければならない宿命を持っています。目標としてそこに進み、そこの目標も同じように進む、というものです。
中には、追いついた人もいます。私にはその人の心中はわかりかねますが、ただ漠然と何か持っているすごい人なんだろうなと感じています。(なんなのかは、まだわかっていませんが。)
話が少し逸れました。
精一杯主体としてすすんでいくことが、全体がすすむ上で必要なものではないでしょうか。