教室ブログ

「幽窓無暦日」

 

河西貴志高等部からです。公立高校の定期テスト期間が終了し、教室も清閑な状態に戻りました。

生徒たちが帰り、夜半に校舎の裏口で一息ついていると黒い影を目撃。しなやかで細長い胴体と短めの四肢、小さい顔から突き出た鼻。何かと思えばイタチです。

 

少し北側が山ですが、藤戸台の土地開発などで、このあたりの住宅街に追われてきたのでしょうか。

かなり素早い動きをしますが、なかなか自分好みのフォルムをしています。この動物は性格が極めて凶暴らしく、自分より大きなニワトリやウサギなども捕食するようです。

 

 

さて、前回の続きでルソーの「人間不平等起源論」英訳の続きを読んでいきましょう。この古典的著作はかなり短いものですが、その分圧縮されたテキストであり、ルソーの思想的核心が随所に表れます。

 

今回は主に、人間と動物の差異について述べています。大学入試の英語長文などでよく出題されそうなテーマですね。ルソーは人間と動物の違いは、「自由」があるかどうかとしています。動物は遺伝子にあらかじめインストールされた本能に従うが、人間は自由をもとに行動を修正していくことができると。

 

第一文目のbutは前置詞で「…以外の」、そのすぐ後のhathというのは古風な用法で、have の直説法 3 人称単数現在形です。次に、agentというのはこの場合は「行為者、動作主」くらいの意味で、a free agentだと自由行為者、つまり「自己の行為を自らが決定できるもの」ということです。

 

 

I see nothing in any animal but an ingenious machine, to which nature hath given senses to wind itself up, and to guard itself, to a certain degree, against anything that might tend to disorder or destroy it. I perceive exactly the same things in the human machine, with this difference, that in the operations of the brute, nature is the sole agent, whereas man has some share in his own operations, in his character as a free agent.

 

The one chooses and refuses by instinct, the other from an act of free-will: hence the brute cannot deviate from the rule prescribed to it, even when it would be advantageous for it to do so; and, on the contrary, man frequently deviates from such rules to his own prejudice. Thus a pigeon would be starved to death by the side of a dish of the choicest meats, and a cat on a heap of fruit or grain; though it is certain that either might find nourishment in the foods which it thus rejects with disdain, did it think of trying them. Hence it is that dissolute men run into excesses which bring on fevers and death; because the mind depraves the senses, and the will continues to speak when nature is silent.

 

 

「私は動物というのはすべて精密な機械だと考えている。自然はこの機械に、感覚器官というものを与えた。この器官によって機械は、自分で自分のネジをまく。そして自分を破壊したり調子を狂わせたりするものから、ある程度は身を守れるようにしているのである。人間という動物の機械にもまったく同じ機構がある。ただ動物という機械では自然がすべてを定めるが、人間は自由な行為者として自然に協力するという違いがある。

 

動物は本能によって選択し、拒否するが、人間は自由な行為によって選択し、拒否するのである。だから動物は、たとえそれが自分の利益となる場合にすら、自然の定めた規則から離れることはできないし、人間はみずからを損ねる場合にも、規則に反して行動することが多いのである。こうして鳩は極上の肉が盛られた皿の上で飢え死にするだろうし、猫は果物や穀物を山のように与えられても飢え死にするだろう。鳩も猫も試してみさえすれば、それまで見向きもしなかった食べ物で、生き延びることができただろうに。これにたいして放埓な人間は不摂生に走り、そのために熱病にかかって死んでしまう。精神が感覚を変質させ、自然が口をつぐむときにも、意志はかたりつづけるからである。」

 

 

古めかしい英文でしたね。ルソーはやはり18世紀の人ですから、動物についてはわりと素朴な考え方もしています。前世紀にデカルトなどが唱えた機械論的自然観というものです。

 

この頃の社会に普及していたものにポンプと時計があります。特に時計のように内部が精巧で自動的に動く機械の登場は、動物と機械の類比を想像させたのでしょう。ちなみにルソーの父親はスイスの時計職人ですね。

 

後半部では、動物と異なり人間は自由な行為によって選択するといっています。ところで、自由というと哲学的というか深遠なものを考えがちですが、端的に私的所有が認められているということです。私的所有とは、簡単にいえば、ある対象を私のみが自由に扱ってもかまわないというものです。きわめて近代的な権利なのですが、これがないところでは自由は考えられませんね。

 

例えば、ある特定の個人が、土地なり建物を所有していて、別の者が無断でそこに出入りしたり処分したりする場合、そこに個人の自由はありません。この私的所有こそ、ふつう現代人が考える自由の範域を決めているといってもいいものだと思います。

 

ただし、ルソーのいう自由はこれを踏まえつつも明らかに意味をずらしていきます。私的所有こそ人間の不平等の基礎であり、「何も所有しない人々はあらゆる束縛から自由ではないか」ともいっていますね。

 

 

今日はここまでです。

 

 

 

 

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