教室ブログ

2016.01.27

Waste of What ?(何が無駄だって?)

「それをすることで僕にどういう利益があるんですか?」という言葉が、鋭くスマートな響きを含むようになってから。そんな時代になってから、暫く経ったように思います。僕が生まれたときには、もう周りはそんなやつばっかりだった。その答えが提示した利益が質問者の興味をそそるものでなければ、どうなるか。簡単です。

 

「あ、じゃあ僕それやらないです、興味ないんで」

 

それで終了です。

 

「それをしてどんないいことがあるのか」を提示されることに、人々は慣れすぎてしまいました。なぜなら、「商品を買うこと」はまさにそれだからです。このパソコンにはこんな機能があって、こんなことが出来て、処理能力はこれだけで、補償はこれだけついていますよ、という「いいこと」が既に提示されていて、それが「相場に適切かどうか」をネットで調べ上げて、相応の値段だと判断できた場合に買う。賢い消費者というのは、できる限り良い製品をできる限り安価で手に入れる者のことをいいます。資本主義が世の中をドミネイトするようになって。人は全てのフィールドで「賢い消費者」として振舞うことに何の疑問も持たなくなりました。そうすることが「スマートである」という定義が万人に共有されるようになったのです。

 

でも、本来それが「通用しない」フィールドというのがあります。
教育はまさにその一つです。

 

 

教育にミリオンダラーをつぎ込んだからといって、そのお金の価値どおりの教育が身につくかというとそんなことはありません。当たり前ですが。それだけではありません。賢い消費者として振舞うことを要求された社会で育ってきた学生たちは、その原理を教育にも適応するようになる。絶対になる。

 

「できる限り最小の努力でよい学歴を手に入れること」
「できる限り楽をしてテストで合格点を取ること」

それが賢い消費者の賢い振る舞い、ということになります。

 

教育に消費者・市場原理を持ち出せば必ずそういうことになる。60点を取れば単位が貰えるテストで100点をとるなんて、消費者原理で考えれば「ナンセンス」以外の何物でもない。6万円で買える商品に10万円を払うようなものですから。こういうことが深層心理で(ここまで読んで、「それの何がおかしいんだよ」って思っている人が結構な数いるだろうなというぐらいに)根付いてしまっているのは、「勉強する意味」として「将来いい仕事についてたくさんお金を稼ぐこと」という、薄っぺらな拝金主義を持ち出してしまったからです。

 

そんなことを言う大人は、「そんなものいらないよ、俺。貧乏でいいもん」という返答の前には口をつむぐしかないし、「だから困らない程度に適当にやるよ、俺」という姿勢を改めさせるだけのロジックを持ち合わせていない。返せるのはせいぜい「それでどうなっても知らないからな」という、リバタリアンよろしくの「自己責任論」でしょう。これまた薄っぺらい。

 

こういう話をすると躍起になっていう方がいます。「いやいや、何が間違っているんだい。君だってお金もらわなかったら働かないだろう?」みたいな。この手の人たちは働くということは何なのかを、あるいはお金の役割というのを、あんまりわかってらっしゃらない。あんまりというか、全然わかってらっしゃらない。

 

人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹がいっぱいになったら昼寝をする。横をトムソンガゼルの群れが通りかかっても、「この機会に二三頭、取り置きしておこうか」などとは考えない。「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。
どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。もし、腹一杯のライオンがそれでも獲物を狩ったとしたら、その獲物は誰かに(仲間のライオンかハイエナか禿鷲かあるいは地中の微生物か)「贈り物」として与える以外には用途がない。
「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。そのような根源的なものについては、それが何かを一義的な言葉づかいで語ることはできない。例えば、「言語とは何か」と私たちは問うことができるけれど、その問いは言語によって行うしかない。「貨幣とは何か」という本を書くことはできるけれど、その本を書いた経済学者はその印税の支払いをおそらくは貨幣で求めるはずである。労働もそれと同じである。

(中略)今、若い人たちがうまく働けないでいるのは、そのことに気づいていないからだと思う。彼らは「働くとはどういうことか」についての定義があらかじめ開示されることを求める。働くとどういう報酬が自分にもたらされるのかをあらかじめ知りたがる。それが示されないなら、「私は働かない」という判断を下すことも十分合理的だと考えている。けれども、残念ながら、「働くとはどういうことか」、働くとどのような「よいこと」が世界にもたらされるのかを知っているのは、現に働いている人、それも上機嫌に働いている人だけなのである。※注釈1

 

この記事では、労働とは「言語を用いる」ことや「親族を形成する」ことと同じように、『人間の人間性をかたちづくっている原基的ないとなみである』とされ、かのクロード・レヴィ=ストロースが言ったように、『人間性を基礎づけるすべての根源的制度の起源は闇に消えていて、私たちは人間である以上、それに直接には決して触れることができない』と述べられています。

 

ようは、「なんで僕らは働くの?」と聞かれたって、「それはお前が人間だからだ」という答え以外には出会いようがないし、内田先生の言葉を借りれば、『「働くとはどういうことですか?」と問うのは「人間であるとは、人間にとってどういう意味をもっているのですか?」という問いと同じようなトートロジーである』のです。ですから、「労働することにどんな意味があるんだろう」という問いへの一義的な答えは無いし、もしあったとしたら、それは既に働いていて、しかも上機嫌に働いている人が、遡及的・回顧的に「あぁ、働くってこういうことなんだなぁ」という形でしか認識されることはない。

 

しかし現代人は、「人間が労働するのは、できるだけ多くの貨幣を手に入れるためである」だとか「自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観を信じて疑いません。だから「勉強も将来とお金のためである」という薄っぺらな教育観を信じている。

 

貨幣が重宝されるのは、「貨幣を介在させたほうが労働が活性化するから」です。
人間が経済活動を行ないはじめたのは、そのほうが「人間は成熟することを促される」ことに気がついたからです。

 

貨幣そのものは富ではない。ただの貝殻であり、金属片であり、紙切れであり、電磁パルスである。
幼児でも参加できるなら、その経済活動は人類学的な意味ではもう「経済活動」ではない。
労働の目的は「人間の人間性を基礎づけること」である。
端的に言えば「大人になること」である。
より具体的に言えば「適切なしかたで贈与が行える人間になること」である。
私たちの時代において「働くとはどういうことですか?」という問いが繰り返し口にされるのは、「贈与できるものになる」ことが人間の本質であるということを誰も言わなくなったからである。
経済学者が誰も言わないので、私が代わりに言っているのである。※注釈2

 

人々は「労働」の意味と報酬を求め、「お金を得る為である」という単純明快な答えを「常識」として認識するようになると同時に、勉強にも「意味と報酬」を求めるようになりました。努力という対価を支払う意味とその代わりに手に入れられる報酬を天秤にかけて吟味し、「やっぱいらねーやこんなん」と判断するのも「合理的である」と考えている。でないと時間とお金と努力の無駄であるから。

 

本当に?

 

労働のそれと同じように、「勉強すること」の本質も僕は「贈与すること」であると思います。学んだことを社会に還元する、次の世代に教える・・・。いつだかのブログにも書きましたが(http://blog.k-wam.jp/2014/09/30/231622.php)、僕は教育は世のため人のためにあると信じてやみません。どれだけ学び勉強しても、学んだことを還元し伝える相手がいない世界では、その行為に何の価値もないでしょう?

 

経済活動や労働は、「それが人間を人間的に成熟させ、適切に贈与できる人間を育てる為に有効な手段である」から、いかなる社会においても取り入れられているのです。教育は「成熟した社会成員を育てることが、その社会の存続と繁栄を達成する為に有効な手段である」から、いかなる社会においても欠かされていないのです。

 

その大前提が忘れ去られてから。

資本主義の発展によって、貨幣の全能性が過大評価され、拝金主義が人々の思考回路に根をはりめぐらせてから。勉強も労働も、本質の順序が逆転してしまいました。より多くの貨幣と利益と報酬を手に入れるために、人は勤勉で遵守的で意欲的でなければならないと。

 

それがダメだとか、悪いとか、そういうのではないんですけど。
でも、教育にそれを持ってくるのは、学生たちの知的好奇心を刺激するにはあまりに短絡的で薄っぺらいと僕は思う。

 

勉強する意味とすることで得られる報酬を人参作戦で目の前にぶら下げた大人に対して、「そんなもんいらねーや」という冷めた返答をした子供たちが思った以上にたくさんいた。人参作戦のピットフォールは、人参が子供たちを駆り立てるに十分な報酬であると考えてしまったことにある。そうじゃなかったときの事は、何も考えていなかった。そんな浅はかな知的好奇心の欠片もくすぐらない人参をぶら下げた結果、その薄っぺらさに冷め切った子供たちは、その後に手をかえ品をかえ吊り下げられた報酬にことごとくノーを突きつけることになる。本当に「お金なんていらねぇや」と思っているかは別です。お金はほら、まぁいりますから。子供たちだってその提言に何の説得力もないと思っているわけじゃない。そうじゃなくて、勉強はほら、したくないじゃないですか、普通。大部分の子供たちにとって。

 

学んでしまったからです、そう言えば「努力しなくていい理由になる」ことに。気づいてしまったからです。世の中には「勉強しなくてもお金を得る手段がある」ことや、「ちょうど良い努力と時間をさいて望んだとおりの学歴と収入さえ得ることが出来れば、オーバーエフォートする必要なんかないじゃないか」ということに。

 

労働にしても勉強にしても、それが労働や勉強であったことが「遡及的にわかる」という特性があります。勉強や労働にどんな意味があって、どんないいことがあるかなんて、そんなものは始める前には分からないのです。絶対に。

 

勉強とは、分からないことを学ぶものです。
分からないから、知的好奇心が刺激されるのです。
意味が分からないからこそ、「いつか分かるかもしれない」という漠然性が子供と教育をつなぎとめているのです。近代固有の消費者マインドは、こうした順序の逆転を引き起こしました。意味と見返りがはじめから提示されていて、そのために時間と資金と努力を費やすべきなんだと。世の中は「選択と集中」なんだと。結果として、すぐに報酬や成果が出ないものは「時間と金の無駄」であると考えるようになったのです。時は金なりという言葉がありますが(僕は大嫌いな言葉ですけど)、資本主義にドミネイトされた世界では、時間はお金と同じぐらい大切な資本と考えられます。だから時間(と努力)の浪費は、5万円の商品に10万円を払う頭の悪い消費者と同じように、ナンセンスなことであると。

 

断言できることがあります。無駄を生み出すのはいつだって人です。どんな経験であっても、それがいつか何かとつながり、とんでもない実用性を伴うことになるかもしれない。信じなければ、どんな経験を積んだっていつまでも「経験」のままで終わるでしょう。スティーブ・ジョブスのConnecting the Dotsの話じゃないですけど、点と点は繋がるのです。それを信じて疑わなければ、必ず。

 

でも結果が出ないのは怖いし、それがこれから自分の人生にとって役に立つ経験になるのか分からない状態では不安だから。だから人は納得しやすい理由や目先の「いいこと」を目標にするようになった。

いつの間にかそれが本質にとってかわってしまった。
でも、それに何となく違和感を持っている若者たちがいる。

なぜ勉強するのか、なぜ働くのか。昨今の若者たちがこれらの問いを口にし、就職活動に気を病んでしまうのは、それが原因なんじゃないかと僕は思います。

 

お金のためとか、自分の将来の為とか。
そうやって言われてきたけど、やっぱりそこまで割り切れないぞ。
なんか違う気がするんだもん。

 

違いますよ。だって労働や教育の本質とは、そんなところにはないからです。そんな違和感が、「なぜ人間は働くのか」という問いに若者たちを向かわせているような気がしてなりません僕たち大人が子供たちにしてあげるべきなのは、経験という点を刻む機会を与えてあげること。そして、線の引き方を教えてあげることなのではないでしょうか。はじめから線が書いてある紙を渡して、それをなぞらせることではなくて。

 

ジョブスは10年前にカリグラフィー(西洋書道)をなんとなしに学んだという「点」を、マック開発時に「コンピューターで様々なフォント使用できるようにする」というアイディアを取り入れることで、10年の時を超え、点と点をつなぎ合わせることが出来ました。労働や教育が遡及的・回顧的に成し遂げられるというのは、こういうことなのです。

 

僕たちは学習塾ですから、直近のテストや入試のために、短期間での成果や結果が求められます。それ自体は当然のことで。

 

でも、人は機械じゃない。思いがあって、気分があって、考えがある。

 

僕が言いたかった事は何かというとですね。

 

「無駄」だなんて子供に向かって言うんじゃないということです。
金の話なのか、時間の話なのか知らないですけど。

 

あんたはこの子の何を見て、この子の勉強を、努力を、無駄だというのか。
何を知って、それを意味がないと捲くし立てるのか。

 

お金を払っているんだからそれに見合った結果をみせろと。
子供にそんなことを求めて、あなたは何がしたいんだ。

 

子供の上司のつもりなのか。

それはご立派な消費者原理なのかもしれないけれども。
それが通用しないのが、教育というフィールドなんです。

 

僕は暑苦しい熱血論は嫌いです。

なので、根拠と論理を並べ立てて説明しました。

ようは「無駄」なんてないんだよっていうお話しです。

無駄を省いてお伝えすると。

 

 

 

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※注1・2
「内田樹の研究室」:『人間はどうして労働するのか』
= http://blog.tatsuru.com/2009/12/16_1005.php

 

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個別指導Wam 庄内校(豊中・庄内の個別指導学習塾)
大阪府豊中市庄内幸町5-17-11
06-4867-4570
校区:豊中六中、七中、庄内小、庄内南小、庄内西小、千成小、島田小など

 

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