ある外国人留学生が、日本語は難しいと嘆いていたというエピソードを見かけたことがあります。というのは、「何がいいか分からなかったから適当に選んでおいたよ。」という文での『適当』という言葉の意味は、「テキトー」って意味ですよね(適当だなおい)。なんというか、だいたいでとか、あまり考えずにというか、そういう感じの。
でも「次の空欄に適当な語句を書き入れなさい」という文での『適当』という言葉の意味は、さっきのそれとは大分異なります。ここでの意味は「正しい」とかそういう意味になる。この場合、何も考えず「テキトー」に語句を入れちゃったらダメなわけですね。
同じ言葉なのに文脈によって意味が変わるなんて、日本語はなんて難しい言語なんだって、そういうわけなんです。でも実はこの手の「あべこべ言葉」的なものは、日本語に限ったものではありません。皆さんが一生懸命勉強している英語にも同じような言葉はいくらでもありますよね。同じ単語にも動詞と名詞の意味があったりなんてしょっちゅうです。皆さんもよく知っている単語であろう”with”という言葉は「~とともに」という意味で今日は使われていますが、元々は「~なしに」という反対の意味も兼ね備えていたそうです。
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「多くの言語学者たちは、最も古い言葉では、強い-弱い、明るい-暗い、大きい-小さいというような対立は、同じ語根によって表現されていたと主張しています(『原始言語の反対の意味』)。たとえば、エジプト語のkenは、もともと『強い』と『弱い』という二つの意味をもっていました。対話の際、このように相反する二つの意味を合わせもつ言葉を用いるときには、誤解を防ぐために、言葉の調子と身振りを加えました。また文書では、いわゆる限定詞といって、それ自体は発音しないことになっている絵を書きそえたのです。すなわち、『強い』という意味のkenのときは、文字のあとに直立している男の絵を、『弱い』という意味のkenのときは力なくかがみこんでいる男の絵を書きそえたのです。同音の原始語をわずかに変化させて、その語に含まれた相反する二つの意味をそれぞれにあらわす表記ができたのは、後代になってからのことです。」(S・フロイト、「精神分析入門」、懸田克躬、高橋義孝訳、『フロイト著作集1』、人文書院、1971年145-6頁)
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言葉の意味は往々にして文脈やシチュエーションによって変化します。「私のこと好き?」と聞かれたときに、笑顔で「好きだけど?」と答えるときと、うつむいてバツが悪そうに「好きだけど・・・」と答えるときではその言葉の意味は違ってきそうですよね。でもそれもシチュエーションによってどちらにも転びそうです。友達としての好きかもしれないし、本当にすきなのかもしれないし、本当は好きじゃないのに言っただけかもしれないし、それは前後の会話であるとか、雰囲気であるとか、そういうので変わってくる。
10代の若い人たちは、「うざい」とか「キモい」とか「やばい」という形容詞を多用します。何を見ても、何を聞いても、何を感じても、だいたいこの手の言葉で感想を述べることができる。これって語彙の貧困という観点から見れば間違いなく退化ではあるのだけれど、その「やばい」はどういう意味なのかを瞬時に理解するという点で、非常に高度なやりとりが交わされているといえます。
ただ、そこでの「やばい」という言葉のニュアンスが話し手と聞き手では寸分の狂いもなく理解されているかというと、そういうわけではない。汎用的な語彙であればあるほど、その言葉が表せる言葉の幅は広いわけですから、その分ずれというのが出てくる。でも、「完全には分からないのにとりあえず伝わる」というのは、実はコミュニケーションにおいては非常に大事な要素であるのです。なぜなら、誤解の余地のないコミュニケーションよりも、誤解の余地のあるコミュニケーションのほうが、僕たちに「コミュニケーションをしている」実感を与えてくれるからです。
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「私たちが話をしていて、つまらない相手というのがいますね。こちらの話をぜんぜん聴いていない人です。なんで私の話を聴いてくれないかというと、先方にはこちらの言うことが全部わかっているからです(少なくともご本人はそう思っているからです)。その人にとっては、私は『いなくてもいい人間』なんです。だって、私の話はもうわかったから。『君の言いたいことはわかった』というのは、ですから『私の目の前から消えろ』という私の存在そのものを否定する遂行的なメッセージをも言外に発していることになります。だから、私たちは『もう、わかったよ』と言われると傷つくのです。」
(内田樹、「先生はえらい」、ちくまプリマー新書、2005年、113P、『誤解のコミュニケーション』)
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皆さんもご経験があるでしょうけど、「分かりきった話」は聴いていても眠くなってしまうのです。オチが読めてしまう物語はおもしろくないのです。それよりも、これはどういう意味なんだろうと考えさせられてしまう話や言葉のほうが、何が起こったのか理解できないような物語のほうが人は聞きたくなるし気になるはずで。
コミュニケーションは交わされることに意味があります(当たり前ですけど)。それゆえに、コミュニケーションは常に聞き手を「不確かで曖昧な位置」にとどめておくことを必要とする。だって話がわかった時点でもうコミュニケーションはもう「必要がなくなる」からです。ですからコミュニケーション力とは、「どれだけ相手を不確かで曖昧な位置」にとどめられるかであって、立場を変えれば、自分が不確かで曖昧な位置に置かれた際に、「それはどういう意味ですか」と身を乗り出して話しに聞き入る能力のことなのです。
だから話が面白い人というのは、話の展開やオチどころを「読めないように」話すのがうまいし、誰とでも仲良くなれる人というのは往々にして「聞き上手」なのです。だって聴き上手の人ってすごいでしょ。凄く興味がありそうに話を聴いてくれる。それっていうのは、「あなたがこれから何を話すか欠片も見当がつかないわ」っていう姿勢をその人は身につけているからです。
一方で、僕らは国語や英語という「言語」を学生たちに教えています。この場合、僕らは「誤解の余地がないように」正しい語彙と文法事項を皆さんに理解してもらう必要がある。よく皆さんや時には保護者の方から、「こんな英語を覚えたところで実際に話すときには役に立たない」というような声をいただくことがあります。それは、あながち間違いではありません。
僕は洋楽が好きで、特にヒップホップやR&Bが大好きですが、彼らの話す英語というのは、正しい文法事項からはかけ離れています。例えば、R.ケリーとアッシャーという歌手の ”Same Girl” という曲の歌詞に、” do she got a kid?” (彼女には子供がいるか?)という一節があります。中学2年生以上の生徒の皆さんなら「あれっ?」って思うはずですが、それはその通りで。
これ、文法としてはめちゃくちゃなんですね。Sheが主語で現在形だからdoじゃなくてdoesにしないといけないし、gotはgetの過去形だからdoとかdoesとかに関わらずgetが正しい。でもこれで通じるし、実際黒人の歌手の歌詞や普通の会話なんかでも、聞くと彼らはdoesを使わずなんでもdoを使うことがざらです。これはたぶんコミュニケーションのもう一つの側面で、「仲間内でのコミュニケーションを外部の人間にはわかりづらくする」ことなのではないかと思います。
みんなにもよく経験があると思うんですけど、地元の友達とかで集まって話す「身内ネタ」ってのは、めちゃくちゃ盛り上がりますよね。でもああいうのって、外部の人が聞いてたらさっぱり面白くない。だってああいうのって、「あのときのお前のあれ、めちゃくちゃおもろかったよな」、「あーあれな、あのときはホンマに死ぬかと思ったわ」とかいう会話でゲラゲラ笑ってたりする。
面白いもので、人は同世代で集まると同世代しかわからないネタや口調で話しだす。さっきの若者が少ない語彙で会話を成り立たせようとするのは、それでは聴いていてもさっぱりわからないという大人たちを会話に加わらせない為なのかもしれません。我々は無意識的に、自分とはルーツや世代を異する人間を排除し、逆に同とする人間内での結束を高めようとしているのではないでしょうか。言語でも、例えば東京や地方に出たときに大阪弁を話す人に出会うと親近感を覚えるし、逆に自分のなまりを馬鹿にされると腹が立ったり(大阪人だけらしいですが)しますよね。そんな感じで。
そうしてみると、言語というのはコミュニケーションの手段としては、柔軟かつ変形的なものとして扱われているといえるようです。
しかしながらもう一度話を戻すと、皆さんは今、言語として英語や国語を学んでいます。その場合、僕らは「まぁ伝わるからdoでもdoesでも構わないよ」とは言えないし、「抜き出している部分はあってるから文末の書き方がおかしいけどまぁ丸しておくね」ということもできない。
なぜって、ここでの言語は「コミュニケーションの為の言語」ではなく、「学問としての言語」だからです。言語学の基礎だからです。それは仲間内で盛り上がる為ではなく、自分のルーツや世代を言語を通じて発信する為ではなく、自分たちが普段使っている言語がどのような規則に縛られて運用されており、それとは全く異なる外語を学ぶことでいかに自分たちが限られた文法と語彙で会話をしているかを知り、世界の広さと人類の英知にほんの少しでも触れるための言語だからです。
だからこそ、特に外語を学ぶ場合、「伝わるんだから別にちょっと間違っていてもいいでしょ」とは僕らはいえない。なぜって、コミュニケーションとしての言語の誤りはコミュニケーションの誤りにはならいけれど、言語学としての言語の誤りは紛うことなく言語の誤りだからです。
コミュニケーションの誤りとは、コミュニケーションの必要性がないと少なくとも片方が思ってしまうことです。それはつまり、「あなたの言うことは何もかもわかった」ということです。でも言語を間違えていたってそうはならない。外国人にたどたどしい日本語で道を聞かれても、それに真摯に耳を傾けて何とか相手の言うことを理解し、相手が理解できるまで何かを伝えてあげることはできる。コミュニケーションの誤りとはそうではなくて、外国人にたどたどしい日本語で道を聞かれたときに、「この人は私に道を聞きたいんだろうけど私は英語は話せないしこの人は日本語を理解できそうにないから」と決め付けてさっさと歩き去ることです。
一方で学問としての言語では、言語の誤りは正されないといけない。なぜかって、実も蓋もない話ですけど、「そういうことになっているから」です。「そういう答え方も間違ってはないかもしれないけど、でもこういう答えが正しいことになっているから」間違いなのです。そういう形で正されるべきなのです。
それは、学問が誤解の余地のある形で我々に話しかけ、学問によって自分が「不確かで曖昧な位置」に立たされることが、僕らが学問という人類の英知とコミュニケーションを深めるために必要なことだから。
「なんでそうなのか」、「なぜこの答えでは間違いなのか」という問いを持たず、「この学問が何をいっているのかもうわかったよ」と思ってしまったその瞬間、僕らと学問とのコミュニケーションは終了する。皆さんも「はいはい、君の言いたい事はこういうことでしょ?」って言われたらなんかムッとしますよね。
それと同じで、学問は皆さんに「何が言いたいのかはっきりわからない」ように話しかけているのです。それに身を乗り出して「どういうこと?」と問いかけてみると、シャイな学問さんはきっと少しずつ心を開いて、自分のことを話し始めてくれることでしょう。
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