前に何かのテキストで、小論文だかのやつだったんですけど、コンビニとかに「車椅子車専用駐車スペース」みたいなやつあるじゃないですか。車椅子のマークが書いてあるやつ。あそこって、そうじゃない人が普通に停めたりするでしょ?そういう人がいるじゃないですか。さも当たり前のように、サッと。それがあるんで、たまにあそこにコーン置いてるところ見たことないですか?あの工事現場とかによくある赤いやつ。たぶん必要な人以外が停めるのを禁止する為なんだと思うんですけど。それをテーマにして、「車椅子車専用の駐車スペースにそうでない車が停車するのを防ぐ為にコーンを置くという策にあなたは賛成か反対か意見を述べよ」みたいなやつがあったんです。
この手の問いへの回答に正しいも間違ったもないんですけど、回答例の内容は「倫理的に間違った行為を防ぐ為だから正しい」的なものだとか、「コーンを最初から置いてたら車椅子車が駐車できない、本末転倒だ」的なやつだとか、そんな感じでした。
小論文なんで、どのような意見であっても、それを起承転結かつ論理的にサポートできる文を書けばそれでいいんですけど。ふむ、中々面白いテーマだなぁと感じて、僕もそれからずっと考えていたんです。小論文がなんで「小」論文かというと、文字数的なこともそりゃありますけど、僕は「深みのある考察がなくていい」からじゃないかなと思うんです。
論文には絶対にそれがいる。それがないと論文じゃないから。
深みのある考察っていうのは、あんまり何も考えてなかった人が聞いたら「あ、そういう見方があるんだ気づかなかった」ってなる見解のことです。それを入れてあげると論文にはグッと深みが出る。そのためには、与えられたテーマの「表面的な要素」ではなくて、その下に隠された「決定的な要素」を見つけ出さないといけないんです。
例えば今回のテーマだと、「車椅子使用者にとってどちらが良いか」だけを考えたら、正直どっちでも大して変わらないんです。コーンを置いてたらサッとは停められないけど、同乗者がいればすぐどけられるかもしれない。置いてなかったらすぐ停められるときもあるかもしれないけど、対象の車以外が停まっていることもあるかもしれない。「店員さんを呼んでコーンをどけてもらう手間と車の持ち主を探し出して車を移動してもらう手間と」を比較して、どっちが「マシか」っていう考察も悪きゃないと思うけど、やっぱり「浅い」と思う。
そうじゃなくて、「決定的な違い」を提示してあげるんです。コーンを置くと置かないでは天と地ほども分かれるような絶対的な何かを。
単刀直入に、僕はこの「対象の車以外が車椅子車専用駐車スペースに駐車することを防ぐ為にコーンを置く」という対応策は、めちゃくちゃ嫌いです。
だってそれは「機能性しか重視していない」からです。
コーンを置くか置かないかという判断を「下す側」にとって大きな判断基準となるのは、「他人を信じるかどうか」です。コーンを置くという事は、「そこに関係ない人が車を停める可能性がある」という前提を持っていないとできない行為ですから。当たり前ですけど。お人良しで世間知らずな人は、わざわざ車椅子のペイントまでしてある駐車スペースに、対象者以外が平気な顔して車を停めるなんてこと「思ってもみない」わけです。そんな人には「そこにコーンを置こう」という発想は欠片もない。全然ない。
最初は皆そうだったのかもしれません。恐らくは。でも彼らは残念ながら、「関係ない人が平気でそこに車を停めてしまう」という「どうしようもない事実」を知ってしまった。そこからコーンを置くという策にいたるまで、もしかしたら様々な葛藤や試行錯誤があったのかもしれません。きっとそうなんだと思います。
でもあえて、この課題で賛否とその理由を述べよと言われたら、僕はこの策を考え出した人を批判します。
だってこの人は、まったく人のことを信じちゃいない。何もかもを信じちゃいない。
そのスペースは車椅子の人の為だから絶対に停めないぞ、と思っている人がいることを信じちゃいない。
もし対象以外の人が車を停めたとして、それを注意する人がいることも信じちゃいない。
それを見た時に、「自分ならそれを注意できる」ってことも信じちゃいない。
全部無理だって思ってる。
コーン置いたら終了じゃないですか。ほんとに。対象の車が停めるときはどければいい。置いているのに無視して停めるやつは、そいつが「絶対悪」なんでそれで片付く。コーンを置くと、そこで線引きができますから。ある程度、確信犯的悪意がないと、コーンを置いてあるスペースに車を無理やり停めようとはならない。そうなると、堂々とその人を非難できる。だってそいつが悪いんだから。
でもコーンが置いてなかったとしたら、あのスペースに普通車が停まるのは「ありかなしか」っていったら、ちょっと微妙なところなんです。停めたとしても絶対悪ではない。たぶん一部の人は「まぁいっか」で停めてる。そこなんです。その微妙なラインが、「学びの機会」なんです。
「これ停めてもいいかな・・・」
「あれ注意したほうがいいのかな・・・」
倫理・道徳はそこで試される。子供はそれを見ているんです。
そこで注意する人を見て、子供は倫理を知る。
親がそこを避けて別のところに車を停めるのを見て、子供は道徳を知る。
コーンを置いたら、それが一切なくなるじゃないですか。
たったひとつのコーンが、数え切れない人の葛藤を未然に防いでしまう。
機能的にしちゃってるんですよ。マニュアル化というか。
ここは車椅子専用で、ここにそれ以外の人は停めちゃダメっていう。そういうことにしちゃってて、だからもうそこにしか着目してない。「なんで」とか「どうして」とか、そういうのはどうでもいいってスタンスです。
実際、機能的に働きますから、そのほうが。置いてあるんだから停められない。置いてあるのに停めるやつがいたらそいつは絶対悪。分かりやすいですよね。単純明快で。でもそこには学びはない。物事を単純にするっていうのは、「思考する必要性をなくす」っていうことです。それがいいこともある。でもどうでしょう。これって、本来ならいい悪いじゃないじゃないですか。
本来なら思いやりなんですよ。
車椅子の人には、入り口に近くて少し広めのスペースをとってあげようっていう。
優しさじゃないですか。親切心じゃないですか。
それを支えてあげるのは、やっぱり人の優しさとか思いやりだと思うんです。
本音は違うのかもしれない。そうすることで顧客満足度がどうちゃらとか、売上がこうちゃらとか。
でも少なくとも建前としてはあるんです。思いやりとか、親切心とか、そういうキレイごとチックなのが。そしてそれは凄く大切なことなんです。本音しかない世の中なんて、誰もがづけづけ物を言って、礼儀や敬語はおざなりで、そんなの耐えられないでしょ?そういうことです。
コーンを置くってのは、その建前を吹っ飛ばしてしまっている。
なんでって、そこにコーンを置いてる時点でもう車椅子の人に親切じゃない。
そこを皆が思いやりと優しさを持ってうまく利用していけるという建前もどこにもない。
さっき「信じる」って言葉で語りましたけど、何も僕は、「この世の誰もが優しくて常に思いやりを忘れない道徳的・倫理的にできた善人で埋め尽くされている」ことを信じていないのはおかしいなんて思っているわけじゃない。むしろそう信じろというほうが無理な話で。そうじゃなくて、「ここには時には道徳や倫理に反するような人や、そんな行為を時の気分でしてしまうような人がいるけれど、それを注意したり、それを見て『自分はそんなことはしない』と心に決めたり、そんな人がいることを許してあげたり、できる力がこの人間社会にはあるはずだ」という建前を信じてほしいということなんです。
だってそうすることでしか、優しさとか思いやりとか、道徳とか倫理とか、その手の「建前」を学ぶことはできないから。
教室の近くにあるコンビニに僕は毎日のように通っています。
そこにある「車椅子車専用駐車スペース」は、常に開放されていて。
そこには関係ない車が入れ替わり立ち代りに駐車していく。
そのたびに僕は嫌な思いをします。
「なんでここに停めるんだろう。」
そのたびに僕は葛藤します。
「注意したほうがいいんじゃないかな。」
だからこそ、僕は絶対にそこには車を停めない。
だからこそ、僕はコーンを置いてほしくない。
信じていますから。
きっとこのコンビニの店長さんは、それを寛大に見逃してあげながらも、そいつの顔はしっかり覚えてるんじゃないかなって。もしそれで困る人が出てきたら、すぐに車をどけてもらえるように。
日本中の施設があのスペースにコーンを置いて封鎖していたら、僕はこうは思わなかったはずで。そしてきっと、それはちょっと、悲しいことだと思う。
僕は今回の「車椅子車専用の駐車スペースにそうでない車が停車することを防ぐ為にコーンを置くという策に賛成か反対か」テーマに対して、コーンを置くことは、人々が「道徳的・倫理的に行動できる『機会そのもの』を奪ってしまう」という観点から、それを批判しました。
皆さんはどう思われたでしょうか。あーなるほどと思ってくれた人もいれば、何を言ってんだこいつはと思った方もいるかもしれない。
でも僕からしたらそんな事はどうでもいいんです。
大切なのは、これを読んだあなたが、いつか車に乗るとき。
車に乗って、とあるコンビニの駐車場に入ったとき。
その駐車場に、車椅子のペイントがある駐車スペースを見つけたとき。
『そこに赤いコーンが置かれていないとき。』
あなたはどうしますかということなんです。