誰しもが人生で数回は「何かを教える」ということを経験したことがあるはずです。部下にだったり、後輩にだったり、子供にだったりなんだったり。そのときに、「なぜこんなにも簡単なことが分からないのか」と、一度でも思われたことはないでしょうか。
不思議なものですよね。どれだけ丁寧に、どれだけわかりやすく教えたとしても、教えられた側が必ず理解してくれるかというと、そんなことはない。「なぜ分からないのかこっちも分からない」なんて感じです。
でも考えてみれば、それは誰もが通ってきた道だと思うんです。
いや、自分はそんなことなかった、もっと物分りが良かったという人もいるかもしれない。でも何も勉強だけじゃなくて。たとえば始めたばかりのアルバイトや習い事だったり、見始めたばかりのスポーツのルールだったり。僕はアメリカンフットボールが大好きですが、どれだけそのルールを丁寧に教えたところで、それを一発で理解できる人はいない。絶対いない。アルバイトを始めたばかりの頃。どれだけ先輩に丁寧に仕事の手順を教えてもらっても、すぐにそれを覚えられる人はいない。絶対いない。
雰囲気とかってあるじゃないですか。こういうときはこうしたほうがいいなとか、こういうときはこっち優先したほうがいいやとか。そういうのってどれだけ説明されてもやっぱりわからない。だから、学生時代のバイトとかで経験あると思うんですけど、色んなことを教えてもらったけど、いま何すべきなのかイマイチよく分からないってゆう。とりあえず言われた通りにするんだけど、「これで本当にいいのかな」みたいな。なんかあっちしたほうがよさそうだけど、わかんないからとりあえず言われたことし続けとこうみたいな。たぶんあってるけど不安だからもう一回聞いておこうかなみたいな。なんか凄い忙しそうだけど何したらいいかわかんなくて棒立ちみたいな。
絶対あった思うんです、そういうの。
でも慣れてくると、そういう頃の感覚って逆にわかんなくなっちゃうんですよね。そしたら新しく入ってきたバイトの子なんか見て、「なんで今それするかなおい」とか、「なんで突っ立ってるよおい」みたいな感じになる。でもそれってやっぱ、ちょっとダメだと思うんですよね。
僕も今となってはこういう立場で生徒たちに勉強を教えていますが、中学校の頃を思い返すと、勉強に関しては苦い思い出が多いです。今は専門としている英語ですけど、当時は大の苦手でした。三単現のsとか全く分からなくて。hasってなんだよみたいな。veどこいったんだよみたいな。
要点抑えて覚えればなんともないことなんですけど、当時はどれだけ説明されてもやっぱりさっぱり理解できなかった。単語にしてもそんな感じで。今でも覚えてるんですけど、中学一年生のときに。classroomっていう単語を、教室っていう簡単な言葉じゃないですか。これを必死になって覚えたんですね。どう覚えたかというと、スペルを一つ一つ暗唱して何回も何回も書いて覚えようとした。大体どの単語もそんな感じで覚えようとしてました。でもこれってclassとroomが繋がってるだけで、別になんてことない単語なんですよね。今おもえば。ほんとに。でも全く覚えられなかった。言葉を一塊で覚えることが出来なくて、とにかく一文字一文字アルファベットの並びを覚えようとした。
そんなだから、覚えが凄い悪いんですね。時間もかかるし。結局、毎日必死こいて単語を覚えたのに、テストで30点ぐらいしか取れなかった。家で情けなくて泣きました。今でも鮮明に覚えてます。そこから勉強するのをやめました。全てを放り投げた。おかげで挽回するために大学時代は一日10時間以上勉強する羽目になりました。留学にも行かせてもらって。親に感謝しっぱなしです。
そんな僕も、今となっては一つの単語を覚えるのにかかる時間は当時の十分の一ぐらいになってる気がします。スッとはいってくるというか。文法事項にしてもそうですけど。あんなに難しく感じたことがこんなに簡単なことだったんだって。今ではそう思います。不思議ですよね。だって問題自体は一緒じゃないですか。そりゃ、経験だとか、累積の勉強時間とか、基礎がわかっているからだとか、そういうのは間違いなくあります。でもBe動詞の用法は中学校の頃から変わってないし、classroomのスペルは10年前から一緒なんです。当たり前ですけど。
僕が敬愛する内田樹さんは、かつてこんなことを仰いました。
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論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば今の自分の考え方を「かっこに入れて」、機能を停止させる、ということである。(中略)目の前に問題があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決には「今の自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
それはペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。使いものにならない道具をいじり回していても始まらない。そういうものはあっさり棄てて、「出刃」に持ち替えないといけない。「論理的に思考する」というのは、煎じ詰めれば、「ペーパーナイフを棄てて、出刃に持ちかえる」ことである。(中略)よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがあるが、「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した)。 文春文庫:『子どもは判ってくれない』
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生徒を見ていると、今まで学んだ知識をきっちりと整理整頓するという作業が出来ていないなと感じます。逆に、僕がそんな絶望的な英語力からここまで這い上がることができたのは、この「整理整頓」がほとんどの要因なんです。ほんとに。だって、知識としてはもう大部分を学んでいたんですよ。それぐらい中・高では包括的に英語の基礎を教わりますから。
はっきりいって、中学校で学ぶ英語をしっかりと理解できれば、十分に英語で意思疎通が出来るはずだし、ちょっとした英文を読む事は造作もなくできるはずです。(実際それができる中学生はいくらでもいます)でもがばっと取り入れた知識を、箱に区分けしてラベルを貼って、必要なときに必要なものを取り出すという作業が、学生たちにはなかなかできない。当時の僕にもできなかった。わからないならわからないなりに使えそうな知識は箱をひっくり返して机に並べて代わる々々に試してみる、という手段をとってくれる子は中々いない。色んなことを学んできた中で、結局使えてるのは二通りあればいいかなぐらいで。それが通用しなければもうあきらめてしまう。
だから先生と一緒にだったり、単元別に分けて取り組めば解けるんだけど、テスト形式だと全くできないなんてことが頻発するわけです。自分が理解している知識や知っている方法だけにこだわっていては、「論理的な人」にはなれません。それは、自分には理解できない考え方や納得できない意見を拒み続けていたら「窮屈で理屈っぽい大人」になってしまうのと同じです。
先ほど中略した中で、内田先生はこんなことをおっしゃっています。
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『論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。金ダワシでウロコを剝ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ厭わないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。』
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いま、知識という名の道具が皆さんの頭の中に散乱しています。道具の使い方を学んで、名称を覚えて、どんなときに使用するのかを知って、実際に使ってみて。でもそれを整理して、いつでも手に取ることができるようにしておかないと、宝の持ち腐れになってしまうのです。握り締めたペーパーナイフを手放して、ありとあらゆる道具にアクセスしてみるんです。役に立つかどうか、道具で問題をこねくり回して実際に試してみるんです。
それが「知恵」というものではないでしょうか。それが考える力ではないでしょうか。
それを学ぶ為に、我々教える側も「縦横無尽、融通無碍」に道具を使いこなして皆さんをサポートしていくつもりです。まだ道具の名前を知らないなら、そこから教えましょう。使い方を知らないなら、一緒に使ってみましょう。一人で使いこなせるようになるまでは、時間がかかることでしょう。辛抱強く学びましょう。
一度自転車の乗り方をマスターしてしまえば、乗れなかったころには戻れません。だから「なぜ分からないのか分からない」のって、ほんとにその通りなんです。だってもう戻れないんだから。でも擬似的に戻る事はできる。それが想像力であり、我々指導する側にはそれがとても大切なことなんですね。
前もこの締め方をした気がしますが、最後はやっぱり内田先生にお願いすることにします。
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「今の自分の考え方」は「自前の道具」のことである。ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。健闘を祈る。
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