18歳のとき、僕は初めて海外の地に降り立ちました。場所はカナダのバンクーバー。はじめて見た日本以外の国の街並みに心躍らせたあのときの興奮は、今も鮮明に覚えています。
車は右側を走ってるし、電車もバスも日本のそれとはぜんぜん違うし、道には全部名前がついてるし、マナーや人への接し方も、全てが新しかった。
当たり前のことが当たり前じゃなくて、当たり前じゃないことが当たり前で。
日本人は礼儀正しくてやさしいっていうけれど、僕はカナダ人の、少なくともあの時バンクーバーで暮らしていた人たちの、方がやさしいと思いました。子供やお年寄りや女性には当たり前のように席を譲るし。それも笑顔で。道路を渡ろうとしたら3台目ぐらいで車は止まって渡らせてくれるし、困っていたらすぐに声をかけてくれる。日本と比べてどうこうじゃないけれど、少なくとも海外に行く前のイメージは大きく変わった。
街並みが違うから人が違うのか、人が違うから街並みが違うのか、それはよくわからないけれど。
日本人は謙虚だと思う。それは間違いないです。
謙虚なのは素晴らしいことだと思います。
向こうの人は大体みんな自信家です。
それが普通です。
自信家だけど謙虚な人が、いわゆる”Class act”と称されるような人たちです。
だから自信家と謙虚な人が対極にあるわけではないんですね。
僕はどっちも併せ持っている”Class act”にあこがれています。
向こうの人は自分のスタイルがあって、ファミリーとかルーツとかに誇りを持っている。たとえば、向こうの人とかと一緒に写真をとると、みんな各々に違うポーズをとってるんですね。日本ってほぼ皆ピースですよね。それが悪いとかじゃなくて。
僕はカナダに住んでるときに、ダンスしたりスケボーしたりができる広場みたいなところで仲良くなったカナダ人6人ぐらい(白人とかチャイナ系とかいろいろいましたけど)と一緒に写真をとったときに、皆がそれぞれ自分のスタイルでポーズを取ったりしてるのに感銘を受けました。そこから僕もまねをして、日本に帰ってきてからも自分がいいなって思うハンドサインでポーズをとってたんです。
そしたらね、馬鹿にされたんです。
裏でからかわれたりとか、おちょくられたりとか、SNSでネタにされたりとか。
仲良しがいじってくるのはいいじゃないですか。
そんなに仲良くない人とか、僕の見えないところでそういうのをされて。
当時19そこらの僕には心いいものじゃなかった。
今思えばなんともないし(そもそも悪意を持ってやってたわけじゃないだろうし)、今じゃ写真をとるときに僕が取るハンドサインは友人の間では定着してるし、この年になるとそんな幼稚なことする人もいなくなりましたけど。でもようは、そうゆうとこなんだなって。日本って場所は。そう思いました。
つまり、環境によるところが大きいと思うんです、自信って。それが容認されていて、自信家に寛容な環境で育てば、それって自然に生まれてくる。だから日本人でも物凄く自信にあふれてる人とか、全然いますよね。本田選手とか。その逆だってある。何人だろうが、どこで育とうが、周りの人たちとか、そういうので大きく左右されると思う。
“If you don’t believe in yourself then why is anyone else going to?”
「君が自分自身を信じることができなくて、いったい誰が君の事を信じてくれるというんだい」
僕の好きなトム・ブレイディという選手の言葉です。
生徒たちを見てきて、自分に自信が持てない生徒が多いなぁと思う。なんていうか、”Where are you? ”みたいな。いや僕はここにいますよじゃなくて、「いやいや、『君』はどこにいるんだい」っていう。そういう子が。具体的にどうこうはなんとも言えないんですけど。
だって自信って伝わるじゃないですか。
ああいうのって、言葉では表せないと思う。
自信を付けさせるのって簡単じゃないと思います。10代そこらで、それ以下で、自信もとうよなんて、酷なことなのかもしれない。葉っぱをかけてどうこうなるものでもないし。逆になんの根拠もない自信を持ってる子もいます。それは凄くいいことだと思う。でもそのまま大人になったらあまり宜しくない。もうそのときには、自信だけでは誰もついてきてくれないので。
自信を持ってもらう。
自信に付随した何かを身につける。
僕たちは学習塾だけど、勉強を通して教えられること、伝えられることはたくさんあると思う。こういうのも、そのうちの一つなのかなと。僕は”Class act”でありたいし、そんな人になってくれたら嬉しいなと。
そう思ったので。
そんな気持ちを秘めて生徒たちに接しています。