夏目漱石の名前の由来は過去のブログ記事で紹介しましたが( http://blog.k-wam.jp/2014/09/30/231622.php )彼が始めて「漱石」の名を使用したのは、友人を通して回ってきた正岡子規の文集の批評を、巻末に漢文で書き記したときでした。もともと「漱石」は子規のペンネームのひとつでしたが、これをきっかけに子規との交流が始まり、後にこのペンネームを譲り受けることとなります。
漱石と子規の友情を生み出したこの文集、「七草集」は、漢文や短歌などによって構成されていました。自作の文集を友人間で回覧し、その批評を漢文で記すなんて、なかなか現代の感覚では想像し難い趣味ですよね。しかし更に驚嘆すべきなのは、当時二人はたった20歳そこらの若者であったということです。
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漱石がおそらくは自らの性情を揶揄したこの雅号を選んだのは、子規がその文集『七草集』を友人に回覧してその評を求めたのに応じて、感想を九首の七言絶句で巻末に記したときのことである。
別に私はここで日本文学史についての豆知識を披露したいわけではない。そうではなくて、二十一歳の青年が、古典を渉猟してひねりの利いた雅号を選び、即席に草した漢詩文によってその文学感を語るという習慣が、今から百年ほど前には存在したが、そのような知的習慣は百年たって完全に消失したという事実を指摘したいのである。
「昔の人は今より知的であった」と言っているのではない。第一、それは事実ではない。(中略)「昔の人は今より知的であった」のではない。昔の人は若くして雅号を選び、漢詩文を以って慨世の言を弄することを好んだが、そのような好尚そのものが消滅したということを申し上げたいのである。
『子供は判ってくれない』 P49~50「ヴァーチャル爺のすすめ」 内田樹 【文春文庫】
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古文もそうですが、特に漢文は大学入試から消え去りつつあります。センターにはありますが(センター試験自体の廃止も検討されていますが・・・)いずれ消えるかもしれません。古文にしても漢文にしても、それらはもう我々にとって「第二言語」に近い。つまり、英語と変わらないということになる。
「社会に出てなんの役にもたたないんだから、英語や実際に役に立つ教科に力を入れるべきだ、古文や漢文は必要ない」
と平気で言ってしまう知識人がメディアには大勢います(ほ○えもんさんとか)。偉そうに言ってますが、僕も古文や漢文のネタをふられてもさっぱりわかりません。なので、漱石の「吾輩は猫である」を読んでも、そこで繰り広げられる登場人物たちの軽快なやりとりは、彼らのジョークや皮肉のほとんどは、(僕のような凡庸な)現代人にはさっぱり理解できない。
「猫」は主人公である猫の視点から、漱石本人を模した猫の主人と彼の家族・友人、そして当時の風俗や社会を猫ならではのユーモアを交えて書き綴った作品です。別に何が起こるわけではない、ストーリー性があるわけでもない、ただただ猫と猫に関わる者たちの日常が延々と語られる。そんな物語です。だからこそ、当時の漱石が身をおいていた環境や時代、雰囲気がうかがい知れます。
彼らは、現代の我々とは全う違う冗談をいい、皮肉をいい、意地を張る。
彼らのやりとりを理解できる現代人は、かなり稀でしょう。
登場人物たちが碁を打っているときのやりとりを見てみましょう。
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「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかもしれないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「然し死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、況んや彘肩をやと、一つ、こう行くかな」
「そう御出になったと、よろしい。薫風南より来って、殿閣微涼を生ず。こう、ついで置けば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣いはなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚って寒し―ええ、面倒だ。思い切って切ってしまえ」
「やや、大変々々。そこを切られちゃ死んでしまう。おい、冗談じゃない。一寸待った」
「それだから、先っきから云わん事じゃない。こうなってる所へは這入れるものじゃないんだ」
「這入って失敬仕り候。一寸この白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「序にその隣りのも引き揚げてみてくれ給え」
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boyか。―なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれ給えな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって花道から駆け出してくるところだよ」
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どうでしょう。なんのこっちゃでしょう?笑
このやりとりには漢詩、英語、歌舞伎、日本の名所や逸話などを洒落たジョークが軽快に交わされています。漱石と子規の文通では、恐ろしく高尚な洒落のやりとりがなされていたと言われています。もちろん、当時もそんな会話をできたのはほんの一握りだったかもしれない。でもそういう文化は、古文や漢文を、和歌や短歌を、ラテン語や英語を引き合いに出しながら会話をおしゃれに装飾していくという文化は、当時確かにあったのです。
僕は夏目漱石が好きだけど、「猫」もお気に入りの本の一冊だけど、このやり取りはさっぱりわからない。巻末の解説を見てもわからない(Do you see the boyの洒落の意味はわかりますけど)。でも僕はこのやりとりが大好きです。この本で一番気に入ってる場面でもある。意味はさっぱりわからないけれど、なぜか面白い。
知的好奇心は常にそういった形で刺激される。
つまり、「何言ってるかわからないけど、なんか面白そうだし、わかるようになってみたい」という形で。
故事や漢文を普段の会話に取り入れてわかる人にはわかる洒落た受け答えができる人は、現代社会からは変人あつかいされなくもないけれど、僕はかっこいいしそんな教養を身につけたいなと思う。国語はそんなに苦手じゃないはずだった生徒で、急に点数が下がるケースが良く見られます。理由は「漢文・古文」です。
それは現代社会の日常生活には全く関係がないし、覚えたところで社会の役に立つわけじゃない。残念ながら、古文や漢文が日常会話にも散見していた時代は消滅し、自作の文集の批評を学友に求めるような趣味もかぎりなく消滅しました。かわりにSNSやらケータイやら、違うジョークや日常会話言語(やばいとか)が出現して、それはそれでいいんだけれど(僕も使ってるし)。
でもそんなお洒落な趣味や言語を巧みに使って会話していた偉人たちの英知をほんのちょっぴりでも理解できたら、なんならそれを使えるようになれたらかっこいいじゃないですか。
古文や漢文が嫌い・苦手な受験生のために、そんな話をしてみました。
Do you seeようですが。