「・・・或るもの自身の限界が或るものの否定者であると同時に、その本質的なものでもあるということになると、それはもはや限界そのものではなくて、むしろ制限である。しかし、制限はたんに否定されるものとして措定されたものではない。ここでは否定によって否定されるものとして措定されたものこそ限界であるから、否定は両刃の剣である・・・」
(ヘーゲル 大論理学)
こんばんは。ヘーゲルの呪文のような一文から始めました。自分の限界が自分自身によって限界として措定され(仮定くらいでいいでしょう)、意識されると、これが制限となります。限界と制限は内容は同じことですが、自分が限界の外に出ていなければ、制限として意識できないわけです。 そしてこの制限を否定するものが当為です。本質的なものでありながら、同時に否定されるものとして、はっきり意識された限界、これを制限というわけです。限界を制限としてみとめて、それを超えようというのが当為、つまり新しい規定、本分ということになります。
さて、何をいいたいかというと、河西貴志校でも高い目標を持っている子たちが特にそうですが、いまの時期によく自分はだめだと嘆く生徒が何人かいます。
模試の結果に絶望し、僕も多少脅したりするのですが、これからやっていかねばならない量に慄いています。 しかし、自分は駄目だといっているときは、じつは有望なのです。本当に駄目なやつは、駄目だということがわかりません。ヘーゲルがいっているように限界が制限になっていないからです。
だから、ときどき絶望したり、自分が駄目だと思わなければ、本当は駄目なのです。
今日は以上です。