「他人とは地獄のことだ」(S・ダリ)
こんばんは。楠見校スタッフBです。
にょっきり、いやすっかり秋らしい夜が続きますね。あれっ?
六十谷校の新教室長から借りたキング・クリムゾンとかピンク・フロイドの「狂気」をBGMに、このブログを書いていますね。
今日はフランスの精神分析家J・ラカンのセミネールの英訳の一節からほんの少しだけ引いてみましょうか。
ラカンは、その晦渋を極める理論にも関わらず(ゆえに)多くの思想家や芸術家にも影響を与えてきたのですが、冒頭に引いたサルバドール・ダリもその1人です。
ダリのパラノイア的な絵画手法は、ラカンが20世紀前半に書いたパラノイアに関する論文の影響から生まれたらしいですね。
下記英文は「原因」と「法則」を比較した直後のもので、「原因」の概念について述べられているところです。
英文の中で特に読みにくい箇所はありません。
Whenever we speak of cause, on the other hand, there is always something anti-conceptual, something indefinite. The phases of the moon are the cause of tides—we know this from experience, we know that the word cause is correctly used here. Or again, miasmas are the cause of fever—that doesn’t mean anything either, there is a hole, and something that oscillates in the interval. In short, there is cause only in something that doesn’t work.
「一方、原因について語るときには、いつもそこに概念化に抗するもの、規定できないものがあります。潮の満ち引きの原因は月の満ち欠けである、という言い方が今でもなされます。原因という言葉がよく使われるのはこういうときです。あるいは発熱の原因は瘴気(悪い空気)である、という言い方もされます。これでは何を言っていることにもなりません。(原因という言い方がされる場合には)そこに穴があるのです。間で何かが揺れ動いています。要するに、原因はうまくいかないものにしかないのです。」
「原因とはうまくいかないものだ」とはラカンの慧眼ですね。
これはどういうことでしょう。
例えば、楠見校の暖房をきって教室の温度を下げたとしましょうか。このとき、暖房をきったことを教室の温度が下がった「原因」とはふつう呼びませんね。
あまりに当たり前の「原因」については、われわれは「原因」という言葉を使わないわけです。
けれど、何もしていないのに急に教室の温度が下がったとしましょう。
そういうときにはじめて「何が起こったんやろ」「原因は何やろ」という疑問が起こってくるわけですね。
そして、同時あるいは直前に感知された幾つかの出来事から要因をピックアップして、自分に都合のいいストーリーを作って、因果関係を構成することになるわけです。(「楠見校は暖房がガスの旧式だし、さっきも変な音がしたからついに壊れたのか」とか「夜中だし裏口からいつもの悪い幽霊が入ってきたのか(笑)」とか。)
つまり、出来事Aと出来事Bのあいだに因果を見るのは、AとBの間に必然的なつながりがない場合に限られる、ということです。
だから、「脳が活性化する原因はセロトニンやノルアドレナリンの放出である」とか「英語ができないのは語彙不足や基本の国語力が原因である云々」というのは発想が貧困ですし、何もいっていないに等しいわけですね。
まとめてみると、人が「原因」について考えるときというのは、「原因」が何であるかが不確かで、複数の選択可能性にさらされるときといえるでしょうか。
少し難しい表現になりますが、「原因」はそこにあらかじめ「ある」のではなくて、事後的に回想され選択されて、そこに「置かれる」といってもいいでしょう。