楠見校スタッフBです。
日差しがジリジリと暑いですね。運動会日和ではあるでしょうが。
今日は少し言葉のことについてお話しましょうか。
今日みたいな暑い日ですと、授業を受けている生徒なんかが「この部屋暑いな」というかもしれませんね。
その場合、暑いという事実を語っているのではなく、僕に何かしろといってるわけですね。
言語哲学者のオースティンによると、文には事実を述べている(コンスタティブ)のと、行為をさせようとする(パフォーマティブ)のとがある。
「この部屋暑いな」というのは、部屋が暑いという客観的な事実を述べているように見えながら、それは「冷房をつけろ」と語っているわけですね。したがって「何々である」というようなことは、客観的な事実の陳述というより、つねに命令というか、何かしらそういうメッセージを含んでいますね。
これを数学でいえば「1足す1は2である」は、けっして事実を語っているのではなくて、そのようにせよという命令を語っているわけです。
例えば、大人は子供に対してしばしば、暗示するつもりもなしに、お前はダメだという事実を客観的に語るものです。ところがその子供にとって、ダメであろうという予言、あるいはダメであれという命令として、意識に刻まれる。
英語では、命令形を未来形でいうことがありますよね。willやmustは強い命令ですね。もともと未来形と命令形は同じもので、「こうなるだろう」ということは、「こうなれ」ということなのです。
だから、子供の頃にダメだといわれてきた人間は、自分でめちゃくちゃ頑張っても、もう一つ自信を持てないままにやり続けないといけない。絶えず、自分は失敗するかもしれないと思いつつ、その観念とも闘い続けなければならない。
いわば、その人間は子供の頃に与えられた予言や命令と闘っているわけですね。ある意味そこに子供の頃における悲劇がありますね。
ここから直感的に、優れた親、教師、上司というのは何か特別な能力を持っているというのではなくて、絶えず子供や部下をそれとなく鼓舞し、常に自信をつけさせる人間だというのが分かりますね。
長くなりましたが、今日はこの辺で終わりましょう。